柳沢敦

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選手名柳沢敦(やなぎさわ あつし)
高校名富山第一
ポジションFW
生年月日1977年5月27日
身長体重177cm/75kg
血液型
出身校・クラブ富山県射水郡
経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柳沢 敦
名前
愛称 ヤナギ
カタカナ ヤナギサワ アツシ
ラテン文字 YANAGISAWA Atsushi
基本情報
国籍 日本
生年月日 1977年5月27日(31歳)
出身地 富山県射水市
身長 177cm
体重 75kg
血液型 O型
選手情報
在籍チーム 日本の旗 京都サンガF.C.
ポジション FW
背番号 13
利き足 右足
代表歴
1998-2006 日本 58 (17)


Template(ノート 解説)サッカー選手pj

柳沢 敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日 - )は、富山県射水郡小杉町(現射水市)出身のサッカー選手である。ポジションFW

目次

[編集] プレイスタイル

オフ・ザ・ボールの動きは世界でもトップクラス。 また、ボールを扱う技術も国内では屈指の選手。 反面ストライカータイプの選手ではないため、京都サンガに移籍するまで「点の取れないFW」という批判が多く、ゴール前での積極性を欠き、メンタル面が弱い欠点があると言われていた。本人も「点を取るだけがFWではない」[1]「たとえGKと1対1になっても、必ずしもシュートは打つ必要がない」等と語り[2]、物議をかもしたこともある。特に代表でのパフォーマンスには賛否両論あり、トルシエ時代にはゴール前でのパスをシュートせずスルーを選択し、監督の逆鱗に触れ途中出場ながらわずか5分で交代させられたこともある[3]。しかし、ジーコブッフバルトなどは彼の能力を高く評価しており、特に日本代表監督であったジーコは、フォーメーション・ポジションの変更に対しての柔軟さを買って、代表メンバーに柳沢をコンスタントに召集していた。また左右の足からゴールを決められ、2001年のイタリアとの親善試合でのボレーシュートのような難易度の高いゴールが多い一方、ドイツW杯でのクロアチア戦(後述)でシュートが決められなかったことなどが批判の要因となっている。しかし08年に京都サンガに移籍したことによりゴールへの意識を取り戻し日本人最多得点(14点)を取るまでにいたった。

[編集] 来歴

中学時代に、U-15日本代表に選ばれる。富山第一高校時代からJリーグのスカウトの注目を集め、高校3年の時の高校選手権では超高校級選手として大会の目玉となった。

[編集] Jリーグ

  • 1996年:富山第一高校卒業後、鹿島アントラーズに入団。1年目から出場し、リーグ戦で6得点をあげる。
  • 1997年:18得点をマークして新人王に選ばれる。
  • 1998年:22得点をマークし鹿島のエースに成長。岡田ジャパンでA代表初招集され、1998年2月15日の親善試合オーストラリア戦で代表デビューを飾る。4月4日の対京都パープルサンガ戦では1試合4ゴールも記録している。5月5日の対ジュビロ磐田戦でもハットトリックを達成。しかしゴールへの執着心に欠ける点を岡田監督から指摘され、フランスW杯の最終メンバーに入るには到らなかった。
  • 1999年トルシエ監督下のU-23代表ではエースとして期待されていたが、1999年代表合宿を抜け出して当時の恋人梨花と密会していたことを写真週刊誌フライデーに掲載され、一時期代表に呼ばれなくなった。
  • 2000年2000年6月6日、ハッサン二世国王杯のジャマイカ戦でA代表初ゴールを挙げる
  • 2001年:12得点をあげ、Jリーグ優勝に貢献。Jリーグベストイレブン受賞。
  • 2002年:日韓ワールドカップにFWとして選出される。W杯ではゴールを決めることができなかったが、ロシア戦で決勝点につながるアシストを記録している。献身的なプレイが評価され、2003-2004シーズン開幕前にイタリアセリエAの古豪サンプドリアに期限付き移籍ではあるが念願の海外移籍を果たす。同年12月24日、モデルの小畑由香里と入籍。

[編集] セリエA

  • 2003年-2004年:サンプドリアではリーグ戦15試合に出場するも無得点に終わる。サンプドリア側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団。柳沢は引き続き海外でのプレーを希望したため、鹿島には戻らず同じセリエAのFCメッシーナと契約する。(鹿島からの1年間の期限付き移籍
  • 2004年-2005年:メッシーナ移籍後、8月22日コッパ・イタリアの1回戦でアチレアレから1ゴール1アシストの活躍でイタリア公式戦初ゴールをあげるものの、リーグ戦では22試合で無得点に終わる。またこの期間、ジーコからも日本代表の招集がかからなくなた時期があった。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。W杯アジア最終予選イラン戦を控えた2005年3月22日、藤田俊哉の負傷離脱後に日本代表に緊急招集。これが2004年7月13日の親善試合セルビア・モンテネグロ戦以来8カ月ぶりの招集だった。イラン戦では途中出場を果たし、福西のゴールにつながるポストプレイをこなした。6月3日のバーレーン戦では1トップとして先発に復帰し、6月8日の北朝鮮戦では5試合523分ぶりのゴールをあげた。またコンフェデレーションズ杯のメキシコ戦でもゴールをあげる活躍を見せた。
  • 2005年-2006年:2005-2006シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望しメッシーナに完全移籍を果たす。ただ、このときはメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になるという形を取った。しかし、出場機会は乏しくノーゴールが続いた。苦しいシーズンが続いたが日本代表に招集されたホンジュラス戦では2ゴールをあげるなどの活躍もみせた。2007年11月現在、これが最後の国際Aマッチのゴールである。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年2月28日に契約は解除され、2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。

[編集] Jリーグ復帰後

  • 2006年:鹿島では背番号は13番。日本での復帰戦となった2006年3月11日のJリーグ開幕戦のサンフレッチェ広島戦ではスタメンでフル出場、ハットトリックを達成。これがJリーグでは、自身3度目のハットトリックとなった。しかし同年3月25日ジェフ千葉戦で右足の痛みを訴えて交代、翌日に右第5中足骨骨折で全治2カ月と診断された。怪我の影響が心配される中、2006年ドイツW杯日本代表の23人に選出される。5月30日の本選前のテストマッチドイツ戦で試合に復帰。ドイツW杯では対オーストラリア戦、クロアチア戦に出場。最終戦のブラジル戦は欠場。W杯終了後にはレンタル元のメッシーナとの交渉により、鹿島アントラーズへ完全移籍した。オシム新監督就任後の日本代表には選出されず、J復帰元年は4得点に終わった。
  • 2007年本田泰人の引退を受けて鹿島の新主将に就任した[4]。選手会長との兼任。4月21日に左第5中足骨(小指)骨折。ナビスコ杯準々決勝第二戦の広島戦で85日ぶりに復帰。2アシストを記録。Jリーグでは第5節を最後にフル出場がなく、田代有三興梠慎三の台頭でスタメン落ちも多くなっていた。
  • 2008年、出場機会を求め、京都サンガF.C.に移籍する。3月16日に移籍後リーグ2戦目の大宮戦で、ゴール前での混戦からこぼれ球を決め移籍後初ゴールを決める。その後もコンスタントに点を重ねていき、これまでの課題だった得点力が徐々に改善され、2001年以来の二桁得点を記録、今季日本人最多得点である14点をマークした。特に一点目は彼のスペースへの走りこみから難易度の高いシュートから記録している。この年は7年ぶりにJリーグベストイレブンにも選ばれている

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1996 鹿島 - J 8 5 6 1 1 0 15 6
1997 鹿島 13 J 25 8 9 2 5 2 39 12
1998 鹿島 13 J 32 22 5 0 1 0 38 22
1999 鹿島 13 J1 26 9 3 1 2 0 31 10
2000 鹿島 13 J1 26 6 3 0 3 1 32 7
2001 鹿島 13 J1 26 12 5 2 1 1 32 15
2002 鹿島 13 J1 27 7 3 0 5 1 35 8
2003 鹿島 13 J1 8 2 - - 8 2
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
2003-04 サンプドリア 13 セリエA 15 0 3 0 - 18 0
2004-05 メッシーナ 20 セリエA 22 0 2 1 - 24 1
2005-06 メッシーナ 13 セリエA 7 0 0 0 - 7 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2006 鹿島 13 J1 23 4 3 1 2 1 28 6
2007 鹿島 13 J1 19 5 6 2 5 2 30 9
2008 京都 13 J1 32 14 6 1 2 0 40 15
2009 京都 13 J1
通算 日本 J1 252 94 49 10 27 8 328 112
イタリア セリエA 44 0 5 1 - 49 1
総通算 296 94 54 11 27 8 377 113

その他の大会成績 32試合13得点

鹿島アントラーズ通算成績 96-03年 06-07年 320試合110得点

[編集] 個人タイトル

[編集] 代表歴

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 58試合 17得点(1998-2006)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1998 2 0
1999 4 0
2000 10 4
2001 6 5
2002 9 0
2003 5 2
2004 8 2
2005 10 4
2006 4 0
通算 58 17

[編集] ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2000年、6月6日 モロッコ ジャマイカ ○4-0 親善試合
2. 2000年、6月18日 日本 ボリビア ○2-0 親善試合
3. 2000年、6月18日 日本 ボリビア ○2-0 親善試合
4. 2000年、10月14日 レバノン サウジアラビア ○4-1 AFCアジアカップ2000
5. 2001年、8月15日 日本 オーストラリア ○3-0 親善試合
6. 2001年、7月1日 日本 パラグアイ ○2-0 親善試合
7. 2001年、7月1日 日本 パラグアイ ○2-0 親善試合
8. 2001年、10月7日 イングランド ナイジェリア △2-2 親善試合
9. 2001年、11月7日 日本 イタリア △1-1 親善試合
10. 2003年、10月8日 チュニジア チュニジア ○1-0 親善試合
11. 2003年、10月11日 ルーマニア ルーマニア △1-1 親善試合
12. 2004年、2月12日 日本 イラク ○2-0 親善試合
13. 2004年、7月9日 日本 スロバキア ○3-1 親善試合
14. 2005年、6月8日 タイ 朝鮮民主主義人民共和国 ○2-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
15. 2005年、6月16日 ドイツ メキシコ ●1-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
16. 2005年、9月7日 日本 ホンジュラス ○5-4 親善試合
17. 2005年、9月7日 日本 ホンジュラス ○5-4 親善試合

[編集] エピソード

  • メッシーナでは、ゴールを決めることは出来ず、「点が決められないFW」として非難されることもあった。([5]
  • メッシーナでは、レッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載ったことがあった[6]。「メッシ-ナ王、柳沢」と見出しにも乗った。
  • 出場機会の減少にもかかわらずメッシーナ2年目のシーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれたり、地元ではMFとしてある程度の評価を得ていたようではある。
  • ドイツW杯2戦目の対クロアチア戦では、ゴール目前で加地亮が大きなチャンスを作るが、そのチャンスでシュートミスをし外してしまった。このことに監督のジーコさえも、後日ブラジル報道陣とのインタビュー中に「準備不足」と批判した[7]。柳沢は試合後「ぼくのシュートチャンスはあの一本だけだった。急にボールが来たので。足の内側でければよかったが、外側でけってしまった」(中日新聞2006年6月19日) とコメントした。「急にボールが来たので」という発言が、プロらしからぬ態度と受取られ、インターネット掲示板2ちゃんねるで嘲笑の対象となり、「Q(急に)B(ボールが)K(来たので)」なる造語まで作られてしまった。「QBK」は現代用語の基礎知識2007年度版にも採録されている。
なお、このミスキックについては、加地のキックは柳沢へのパスではなくゴールを狙ったシュートであり、それがミスで柳沢のところに来たとの見方[8]もあり、三浦知良も「(柳沢は)こぼれ球を狙っていた」[9]と推察している。
  • 中田英寿は2002年日韓W杯を振り返りチーム内のMVPとして柳沢と戸田の名前を挙げている。また10代から共に各世代の代表でプレーしてきた中村俊輔は事あるごとに「ヤナギさんとだとやりやすい」と発言している。
  • 6大陸すべての対戦相手からゴールを挙げるという珍しい記録を持っている。
    • 北中米:メキシコ、ジャマイカ等
    • 南米:パラグアイ、ボリビア
    • 欧州:イタリア、ルーマニア等
    • アフリカ:ナイジェリア、チュニジア
    • オセアニア:オーストラリア
    • アジア:サウジアラビア、北朝鮮等
  • 実家はラーメン屋を営んでいる。

[編集] コマーシャル出演

  • 昭和産業
    • 「油汚れの少ない唐揚げ粉」(1999年)
    • 「天ぷら粉・黄金の粉」(1999年)
  • 日清食品「焼豚屋」(2002年)
    • 『バス篇』 - 本山雅志との共演
    • 『飛行機篇』 - 本山雅志との共演

[編集] 書籍

  • 俺のシュートを受けてみろ!-若きストライカーの自画像(1997年、主婦と生活社、ISBN 4391120364
  • 柳沢敦(鹿島アントラーズ)カレンダー2003(2002年、ハゴロモ、ISBN 489495317X

[編集] DVD

  • 柳沢敦DVDバイオグラフィーAの肖像(2003年)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 柳沢敦インタビュー
  2. ^ 救世主・柳沢「オフ・ザ・ボール」で絶大な信頼
  3. ^ YouTube yanagisawa
  4. ^ 柳沢、日本人3代目主将で出直し
  5. ^ メッシーナ会長が柳沢擁護
  6. ^ “海峡の王様”柳沢に最高の評価
  7. ^ 初のダメ出し「柳沢は準備不足」
  8. ^ 泣いてたまるか!鹿島アントラーズFW 柳沢敦
  9. ^ 一番悔しいのは柳沢なんだ

[編集] 外部リンク

先代:
斉藤俊秀
Jリーグ新人王
1997年
次代:
小野伸二


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この記事の更新日時:2009年01月07日04時12分

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