中田英寿

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選手名中田英寿(なかた ひでとし)
高校名韮崎
ポジションMF
生年月日1977年1月22日
身長体重175cm/72kg
血液型
出身校・クラブ山梨県甲府市
経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中田 英寿
名前
愛称 ヒデ
カタカナ ナカタ ヒデトシ
ラテン文字 NAKATA Hidetoshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 1977年1月22日(31歳)
出身地 山梨県甲府市
身長 175cm
体重 72kg
血液型 O型
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1995.2-98.6
1998.7-00.1
2000.1-01.6
2001.7-03.12
2004.1-04.6
2004.7-05.7
2005.7-06.6
ベルマーレ平塚
ペルージャ
ASローマ
パルマ
ボローニャ
フィオレンティーナ
ボルトン・ワンダラーズ
85 (16)
48 (12)
30 (5)
67 (5)
17 (2)
20 (0)
21 (1)
代表歴
1997-06 日本 77 (11)


1国内リーグ戦に限る。現在
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - 山梨県甲府市出身)は、日本の元サッカー選手。元日本代表。愛称はヒデFIFA親善大使。株式会社東ハト執行役員。引退後は世界各地を旅している。

日本代表のFIFAワールドカップ(以下W杯)3大会連続出場に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府より爵位(カバリエーレ)受章。バロンドール候補に3回選出、FIFA最優秀選手賞候補に4回選出されたのは、アジア人選手で最多。U-17世界選手権、(現在のU-17W杯)、ワールドユース、(現在のU-20W杯)、オリンピックコンフェデレーションズカップ、W杯、以上のナショナルチーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一のアジア人選手である。

目次

[編集] 人物

[編集] ユース時代〜Jリーグデビュー

小学3年生、8歳のときに『キャプテン翼』の影響でサッカーを始める[1]。日本を代表するMFとして知られるが、甲府市立甲府北中学校3年生でU-15(15歳以下日本代表)に選出されたときにはFWとして登録されていた。U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出す。以後、すべての年代別日本代表に選出され、年代別の世界大会であるU-17世界選手権U-19アジアユースワールドユースオリンピック(23歳以下)にはすべて「飛び級」で出場した。オリンピックには19歳でアトランタオリンピック、23歳でシドニーオリンピックと、2回出場している。韮崎高校2年のときには全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。
1995年
Jリーグに加盟するクラブが12クラブの時代、11クラブからオファーを受け[2]、その中から横浜マリノス横浜フリューゲルスベルマーレ平塚の練習に参加したうえでベルマーレ平塚に入団。翌年、ゲームメイクの能力を買われトップ下にコンバートされる。
1996年
アトランタオリンピックに出場。のちに『マイアミの奇跡』といわれる強豪ブラジルとの勝利に貢献した。同年のシーズンオフに、イタリアセリエAの名門ユベントスへ短期留学し(期待したトップチームではなく下部での練習だったため落胆したらしい。nakata.net TV最終回において、ベルマーレ平塚が気持ちよく留学に送り出してくれたことを感謝の念をもって語っている)、海外に目を向けていることを伺わせた。引退後に放映された「nakata.net TV 再開」の中で、海外移籍は三浦知良の影響であったことを語っている。韮崎高校時代には「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」と、資格取得にも挑戦(小松成美著「鼓動」に税理士の登竜門の日商簿記検定試験2級取得のエピソードがある)。プロで通用するかわからないし、怪我でいつ引退するかもわからないと考えていた。実際29歳の若さで電撃引退したが、30歳ぐらいには引退して他の道に進むという青写真をそのころから持っていたと思われる。
1997年
常に各年代別の日本代表に飛び級で招集されて主力選手として戦ってきたが、この年に韓国との親善試合でついにフル代表デビュー。W杯アジア最終予選で苦しむフル代表をW杯初出場へと導く原動力となっていく。アジア第3代表決定戦となったイラン戦では、中山雅史城彰二岡野雅行の上げたすべてのゴールの決定機を作る活躍で勝利に貢献、『ジョホールバルの歓喜』と称して語られている。日本代表で中心選手となると、同年12月に各国のスタープレーヤーを招いて行われた『フランスW杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜』に出場。ロナウドが後半で途中交代する際にはキャプテンマークを渡されたが、迷わず腕に巻いて臆することなく堂々とプレーした。引退までに計8回にわたって世界選抜試合[3]に招かれ、現役引退後も世界選抜や親善マッチ[4]へ出場している。

[編集] 初のW杯出場、イタリアでのキャリアスタート

1998年
日本の初出場となったフランスW杯では、チームの核としてグループリーグ全3試合にフル出場。チームは全敗して国内では酷評されたが、中田のプレーは海外のクラブに認められ、獲得に名乗りをあげたクラブは11にのぼった[5]
同年7月、21歳で世界3大リーグ[6]の一つ、イタリアのセリエA・ペルージャへ移籍金470万ドルで完全移籍した[7]
1998-1999シーズン
開幕戦で、ジダンを擁する強豪ユヴェントスから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点(うちPK4得点)をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立て、イタリアの有力スポーツ誌グエリン・スポリティーボが選出するセリエA外国人選手MVPに選ばれた。
1999-2000シーズン
中田に興味を示す欧州のクラブが続出したが、ペルージャが移籍金を釣り上げたため契約には至らなかった。この時点で最も獲得に熱心だったクラブはリーグ・アンASモナコといわれる[8]。シーズン途中に1600万ドルで名門ASローマへ移籍。これは監督だったファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。カペッロは中田獲得を決めた理由をこう述べている。「中田の獲得を決めたのは私だ。以前から気に入っていたが、9月26日にペルージャと戦った時のプレーを見て、それは確信に変わった。TV解説者の立場から各チームを見ていた昨シーズンから、中田の動向は注意深く追い続けていた。そして、ペルージャ戦での生のプレーを見て、その円環が閉じたというわけだ。それで私はセンシ会長に獲得を要請し、クラブもそれに応えてくれた。私は、優秀なプレーヤーは新しい環境にすぐ適応するものだと考えている。中田もその一人だ。彼のポジションについては、すでにひとつのアイデアを持っているが、それが実際に機能するかどうかは、少なくとも10日間は時間をもらわなければならない[9]
当初は中盤の底で起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場して高いパフォーマンスを発揮した。しかし、生粋のローマ育ちでチームの象徴的存在になりつつあったトッティが復帰すると再び中盤の底で起用され、シーズン半ばから途中出場が多くなり、トッティの交代要員となっていった。当時の外国人選手の扱いについての規定もあり、久しく出場できない状態が続いた(後に変更された)。こうした状況でも与えられた時間の中で質の高いプレーを見せ、再び徐々に出場時間を増やしていった。なかでも2000-01シーズン終盤の第29節ユヴェントス戦での、途中出場ながら引き分けに持ち込むゴールをたたき出した活躍は、ロマニスタに称えられ、語り草となっている(パルマ移籍以降も、ローマのホームスタジアムであるオリンピコにおいては、中田をコールする前に「SHOGUN(将軍)」のキャッチフレーズがつけられていた)。ASローマはこの試合をきっかけに、一時は遠ざかりかけたスクデットを再び手繰り寄せていった。
2001年
コンフェデレーションズカップでは、セリエAの首位を走っていたASローマと日本代表監督フィリップ・トルシエとの間で、中田の招集を巡って軋轢が起こった。「グループリーグ3試合のみ」という条件で日本に帰国して戦ったが、日本代表がグループリーグを突破すると、トルシエは中田に準決勝以降も出場するよう要請した。JFAとASローマとの話し合いの結果、準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻ることになった。準決勝では豪雨の中、強力なフリーキックで直接ゴールし、日本をフル代表初の国際大会決勝に導いたのち、決定に従ってイタリアへ戻ったが、決勝に出場するよう要求したトルシエから批判される[10]。セリエAでは90年代からACミランとユベントスの2強がスクデットを独占していたが、ASローマが18シーズンぶりにスクデットを獲得。日本人初のセリエA優勝という快挙と合わせ、中田の存在は世界的なビッグクラブと代表チームの間で綱引きが起こるほどまでに強まっていた。

[編集] 2度目のW杯、クラブでの浮沈

2001年
パルマは獲得を目指していたルイ・コスタACミランに移籍したため、代わりに中田を獲得。移籍金はアジア人選手最高額の約33億円にのぼった。レンツォ・ウリヴィエリ監督の下、トップ下でプレーしたが、高額な移籍金に見合うパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリの更迭後は監督が次々と交代し、レギュラー争いの日々となっていった。
2002年
25歳で記念すべき地元開催となった日韓W杯に出場。精神的にもチームを牽引する中心選手として、グループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。グループリーグのチュニジア戦では、ヘディングで自身のW杯初ゴールを記録した。
2002-03シーズン
このシーズンから指揮をとったチェーザレ・プランデッリ監督には右サイドハーフでレギュラーとして起用された。アドリアーノアドリアン・ムトゥを生かす徹底したチーム戦術は、中田を加えて「トリデンテ」と呼ばれ、功を奏した。敵地でのユベントス戦で得点するなどユベントス・キラーぶりも見せ、攻撃の中心として活躍した。しかし、シーズン後半になると失点の多さから守備的なチーム戦術へ変更、中田の動きを右サイドに張りつくように厳しく制約した。右サイドの広大なエリアを豊富な運動量で支えて高い評価を受け、プランデッリからは「ナカタ」というポジションを確立したと称賛された[要出典]が、ポジションチェンジをしながら相手を崩すなかでこそ自分の持ち味が発揮できると考える中田とは確執が生まれていった[11]。この起用法についてはイタリアのメディアでも議論が起こり、ペルージャ時代の恩師カルロ・マッツォーネが「パルマでの状況は知らない。ただペルージャのとき私はトップ下のポジションで起用していた。テクニックに優れ、走力もある、理想的な中央のMFタイプだということだ」と苦言を呈したこともあった[12]。また、アドリアーノとムトゥは単独での突破が多く、チャンスの場面でも他の選手にパスを出さないなど単調なプレーになりがちなのを問題視していた[13]
プランデッリとは話し合いを重ねたが改善されず、中盤の中央で自由に動くという自分のスタイルを貫くことを選択し、その結果ポジションを失っていく。2003-04シーズン前の移籍市場では、ACミラン、ラツィオ、古巣であるASローマの計3チームのビッグクラブへの移籍が噂されたが(後にACミランとラツィオは交渉を行ったことを認めている[要出典])、プランデッリが中田の希望を取り入れると返答したことを受けて残留、しかし状況は変わらなかった。
2003-04シーズン
冬の移籍市場で、中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍を決断する。センターハーフを任された中田は、移籍初戦と次戦の2試合連続のアシストによってチームメイトの信頼を得た。以後、セリエAと日本代表の全試合にフル出場する過密日程をこなし、ついにはグロインペイン症候群を発症するが、ボローニャのセリエA残留に貢献して恩師の期待に応えた。シーズン末、パルマは子会社の粉飾決算により破産。マッツォーネは中田の完全移籍を熱望していたが、ボローニャ側はレンタル元であるパルマ側の破産管財人が要求した金額と年俸を工面できず頓挫した。
2004-05シーズン
シーズン直前にフィオレンティーナへ完全移籍。シーズン前の合宿までの2か月あまり、日本でグロインペインの治療に専念した。しかしシーズンに入っても回復せず、痛みを抱えたまま低調なプレーに終始して現地ファンに酷評され、その間にクラブと日本代表の両方の出場機会を失った。回復には1年を要したが、2005年3月にサテライトの試合で結果を出すと、すぐにドイツW杯アジア最終予選に招集され、実力の均衡してきた厳しい戦いを支えて予選を突破した。クラブにおいても次シーズンに向けての決意を新たにしたところ、2005-06シーズンから、パルマ時代に確執があったプランデッリが監督に就任することを知り、急転直下、移籍することにする。

[編集] イングランドでの挑戦、3度目のW杯

2005年
7年間住んだイタリアを離れ、28歳でイングランドFAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。加入後すぐにレギュラーをつかむ。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。その活躍から「シーズンで8点取れば獲得したい」とアーセナルが獲得に興味を示した[要出典]。まもなく日本代表の親善試合に招集されたが、サム・アラダイス監督はコンディションを憂慮して難色を示した。中田は代表の招集にはすべて応じたことから、やがてアラダイス監督の信頼を失い、おもにリーグ戦の途中出場とカップ戦だけの出場になっていった。だがカップ戦でのパスをつなぐプレーが徐々に認められ、リーグ戦終盤には5試合連続で先発出場し、チームの勝利に貢献。ドイツW杯を前に懸念されていた試合勘の問題も払拭した。ただし、ボルトンはロングボール戦術を中心とするチームだったため、能力をフルに発揮できたとはいえなかった。ショートパスに偏る日本代表、ロングボールに偏るボルトンと、両極端なチームで並行してプレーすることとなった中田は、ロングボールを活かすためにショートパスを、ショートパスを活かすためにロングボールを織り交ぜるという意外性が、相手チームへの効果的なプレッシャーになると分析していた[14]
2006年
6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツW杯のグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントには進出できなかったが、第2戦のクロアチア戦では猛暑の中でチームを牽引し、引き分けながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。敗退国から選ぶベストイレブンにも選出された。ブラジル戦では力の差を見せつけられ、疲弊させられて手も足も出ない状況に陥るなか、中田はそれでも何かできることはないかと考え、「もう走ることしかできない」と思った[要出典]。試合終了の笛が鳴るまで走り抜いてピッチに倒れ込んだ姿は、倒れないことを信条としてきたとされるそれまでの中田のイメージとは相反するものだった。

[編集] 現役引退〜現在

2006年
7月3日自身の公式HP上で現役引退を表明。以後は世界各地を旅しており、見聞を広めながら自分にできることを探したいという趣旨の発言をしている。また、サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし、貢献もしたい」と繰り返し語っている。同年12月、2007年7月に開催される第14回AFCアジアカップ2007の組み合わせ抽選会にドロワーとして出席した。
2007年
12月、日本で開催されたクラブワールドカップの記者会見に出席、引退後初めての公式会見となった。その席でFIFAブラッター会長は、中田が世界50カ国、150都市以上を旅し、国連のプログラムに協力しながら、サッカーを通じた社会貢献活動を続けていることを高く評価し、世界で16人目となるFIFA親善大使への就任を要請したことを発表。中田は今後FIFAとともにさまざまな活動をしていく考えを述べ、要請を受諾した。
2008年
6月、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』を立ち上げ、地球環境に「なにかできること、ひとつ。」をテーマにキャンペーンを行った。その中の企画の一つとして、海外スター選手を招いての親善マッチ『+1 FOOTBOOL MATCH』を開催。海外では選手や元選手が世界のスター選手をオーガナイズしてチャリティーマッチや親善試合を行っているが、日本人では初の試みとなるもので、横浜国際総合競技場に約6万3000人の観衆を集めた。この試合は意識の啓発を目的としておりチャリティーマッチではなかったが、来場者に出場選手の直筆サイン入りユニフォームが当たるラッフル(くじ)を購入するという方式で寄付を募り、寄付金はミャンマーサイクロン食糧支援と、中国・西部大地震復興支援に全額寄付された。また、中田の主旨に賛同したルイ・ヴィトン主催によるチャリティー・ガラにおいて、「中田チームと試合できる」権利が800万円で落札されるなど約2900万円の収益をあげ、アフリカのマラリア対策のための蚊帳を購入する資金として寄付された。また、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』は、収益の中から岩手・宮城内陸地震へ義援金を寄付している。
ウィキニュース
ウィキニュースに関連記事があります。
同年6月、2008クラブワールドカップ出場が決定しているワイタケレ・ユナイテッドからの出場要請や、元タイ首相のタクシン・チナワットが当時オーナーだったマンチェスター・シティからオファーが来るなど、現役復帰が噂された。
同年8月、アラブ系最大サッカー雑誌の『Super』誌が、年間最優秀アジア選手、年間最優秀アフリカ選手、年間最優秀アラブ選手を表彰するアワードを作ることになり、審査団の一員として選出方法を話し合う会議に出席。審査委員長は、著名なレフェリーだったピエルルイジ・コッリーナが務めている。

[編集] 略歴

  • 9月・17歳高校3年 - U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
  • ・17歳高校3年 - 山梨県立韮崎高等学校時代、Jリーグ12チーム時代、11チームから獲得オファー
  • 12月・17歳高校3年 - ベルマーレ平塚と仮契約
  • 1995年 2月・18歳高校3年 - 東京ドームカップ・対ジュニオール戦 プロデビュー(途中出場)
  • 1997年 5月・20歳 - W杯日韓共催記念試合 A代表デビュー 日本1-1韓国
  • 6月・20歳 - キリンカップサッカー97 日本4-3クロアチア
  • 6月・20歳 - キリンカップサッカー97 日本1-0トルコ
  • 6月・20歳 - フランスW杯アジア一次予選 日本10-0マカオ 2得点2アシスト
  • 6月・20歳 - フランスW杯アジア一次予選 日本3-0ネパール
  • 6月・20歳 - フランスW杯アジア一次予選 日本1-1オマーン 1得点
  • 7月・20歳 - ALLSTAR SOCCER出場
  • 8月・20歳 - ブラジルワールドツアー 日本対ブラジル
  • 8月・20歳 - JOMOカップ97出場
  • 9月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本6-3ウズベキスタン 1得点
  • 9月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本0-0UAE
  • 9月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本1-2韓国
  • 10月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本1-1カザフスタン
  • 10月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本1-1ウズベキスタン
  • 10月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本1-1UAE
  • 11月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本2-0韓国
  • 11月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本5-1カザフスタン
  • 11月・20歳 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本3-2イラン 3アシスト[18]
  • 12月・20歳 - W杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜
  • 12月・20歳 - 天皇杯全日本サッカー選手権大会出場 3戦2勝1敗
  • 1998年 2月・21歳 - 国際親善試合 日本3-0オーストラリア 1得点1アシスト
  • 3月・21歳 - マールボロ ダイナスティ・カップ98 日本2-1韓国
  • 3月・21歳 - マールボロ ダイナスティ・カップ98 日本5-1香港選抜 2得点
  • 3月・21歳 - マールボロ ダイナスティ・カップ98 日本0-2中国
  • 4月・21歳 - 2002W杯日韓共催記念試合 日本1-2韓国 1アシスト
  • 5月・21歳 - キリンカップサッカー98 日本0-0チェコ
  • 6月・21歳 - 国際親善試合 日本0-1ユーゴスラビア
  • 6月・21歳 - フランスワールドカップ一次リーグ 日本0-1アルゼンチン
  • 6月・21歳 - フランスワールドカップ一次リーグ 日本0-1クロアチア
  • 6月・21歳 - フランスワールドカップ一次リーグ 日本1-2ジャマイカ
  • 7月・21歳 - セリエA・ACペルージャへ移籍
  • 9月・21歳 - シーズン開幕戦(ユベントス戦)で2得点
  • 10月・21歳 - キリンチャレンジサッカー98 日本1-0エジプト
  • 12月・21歳 - イタリアサッカー協会100周年記念試合 イタリア代表対世界選抜
  • 1999年 3月・22歳 - キリンビバレッジサッカー99 日本1-0エジプト
  • 6月・22歳 - キリンカップサッカー99 日本0-0ベルギー
  • 6月・22歳 - キリンカップサッカー99 日本0-0ペルー
  • 9月・22歳 - シドニーオリンピックアジア最終予選壮行試合 日本4-1韓国
  • 9月・22歳 - シドニーオリンピックアジア最終予選 日本2-0カザフスタン
  • 9月・22歳 - シドニーオリンピックアジア最終予選 日本3-1カザフスタン
  • 3月・23歳 - キリンビバレッジサッカー2000 日本0-0中国
  • 4月・23歳 - 2002W杯日韓共催記念試合 日本0-1韓国
  • 6月・23歳 - ハッサン2世杯 日本2-2フランス PKで敗戦
  • 6月・23歳 - ハッサン2世杯 日本4-0ジャマイカ
  • 8月・23歳 - 世界選抜チャリティーマッチ フランス対世界選抜
  • 9月・23歳 - シドニーオリンピック壮行試合 日本6-0クウェート
  • 9月・23歳 - シドニーオリンピック壮行試合 日本3-1モロッコ
  • 9月・23歳 - シドニーオリンピック ベスト8
    • 一次リーグ 日本2-1南アフリカ
    • 一次リーグ 日本2-1スロバキア 1得点
    • 一次リーグ 日本2-2アメリカ(PK 日本2-4アメリカ)
  • 10月・23歳 - ジュビレオ杯(イタリア聖年記念試合) イタリア対セリエA外国人選抜
  • 2001年 3月・24歳 - 国際親善試合 日本0-5フランス
  • 4月・24歳 - 国際親善試合 日本0-1スペイン
  • 2001年 5月・24歳 - コンフェデレーションズカップ一次リーグ 日本3-0カナダ
  • 2001年 6月・24歳 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001一次リーグ 日本2-0カメルーン
  • 6月・24歳 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001一次リーグ 日本0-0ブラジル
  • 6月・24歳 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001準決勝 日本1-0オーストラリア 1得点
  • 6月・24歳 - セリエA優勝(ASローマ 日本人として初)
  • 7月・24歳 - ACパルマへ移籍、イタリア杯優勝
  • 8月・24歳 - チャンピオンズリーグ最終予選出場
  • 11月・24歳 - キリンチャレンジカップ2001出場 日本1-1イタリア
  • 5月・25歳 - イタリア杯 優勝
  • 5月・25歳 - 国際親善試合出場 日本0-3ノルウェー
  • 2002年 5月・25歳 - キリンチャレンジカップ2002出場 日本1-1スウェーデン
  • 2002年 6月・25歳 - 日韓ワールドカップ 全4試合出場 ベスト16、1得点
    • 一次リーグ 日本2-2ベルギー
    • 一次リーグ 日本1-0ロシア
    • 一次リーグ 日本2-0チュニジア 1得点
    • 決勝トーナメント 日本0-1トルコ
  • 2002年10月・25歳 - キリンチャレンジカップ2002 日本1-1ジャマイカ
  • 2002年12月・25歳 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』レアル・マドリード対世界選抜
  • 2003年 3月・26歳 - 国際親善試合 日本2-2ウルグアイ 1アシスト
  • 2003年 6月・26歳 - 親善試合 セレッソ大阪対パルマA.C.
  • 2003年 6月・26歳 - キリンカップサッカー 日本1-4アルゼンチン
  • 2003年 6月・26歳 - キリンカップサッカー 日本0-0パラグアイ
  • 2003年 6月・26歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝2敗、1得点 グループリーグ敗退
    • 一次リーグ 日本3-0ニュージーランド
    • 一次リーグ 日本1-2フランス
    • 一次リーグ 日本0-1コロンビア
  • 8月・26歳 - キリンチャレンジカップ2003 日本3-0ナイジェリア
  • 8月・26歳 - キリンチャレンジカップ2003 日本0-1セネガル
  • 10月・26歳 - 国際親善試合 日本1-0チュニジア
  • 10月・26歳 - 国際親善試合 日本1-1ルーマニア 1アシスト
  • 11月・26歳 - キリンチャレンジカップ2003 日本0-0カメルーン
  • 12月・26歳 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』(ロナウドチーム)
  • 2月・27歳 - ドイツW杯アジア一次予選 日本1-0オマーン
  • 3月・27歳 - 「THE FIFA 100」に選出される
  • 3月・27歳 - ドイツW杯アジア一次予選 日本2-1シンガポール
  • 7月・27歳 - フィオレンティーナへ完全移籍
  • 11月・27歳 - 世界エイズデー 国際慈善試合 バルセロナ対世界選抜 1得点
  • 2005年 2月・28歳 - スマトラ沖地震チャリティーマッチ 世界選抜対欧州選抜
  • 3月・28歳 - ドイツW杯アジア地区最終予選 日本1-2イラン
  • 3月・28歳 - ドイツW杯アジア地区最終予選 日本1-0バーレーン
  • 6月・28歳 - ドイツW杯アジア地区最終予選 日本1-0バーレーン
  • 6月・28歳 - 「FIFA人種差別撲滅キャンペーン」親善大使に任命される
  • 6月・28歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝1分1敗、グループリーグ敗退
    • 一次リーグ 日本1-2メキシコ
    • 一次リーグ 日本1-0ギリシャ
    • 一次リーグ 日本2-2ブラジル
  • 8月・28歳 - イングランド・FAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズへ1年契約の期限付き移籍
  • 9月・28歳 - キリンチャレンジカップ2005 日本5-4ホンジュラス
  • 10月・28歳 - 国際親善試合 日本2-2ラトビア
  • 10月・28歳 - 国際親善試合 日本0-1ウクライナ
  • 10月・28歳 - キリンチャレンジカップ2005 日本1-0アンゴラ
  • 2006年 2月・29歳 - 国際親善試合 日本2-2ボスニア・ヘルツェゴビナ 1得点
  • 5月・29歳 - 国際親善試合 日本2-2ドイツ
  • 6月・29歳 - 国際親善試合 日本1-0マルタ
  • 6月・29歳 - ドイツワールドカップに出場、1分2敗でグループリーグ敗退
    • 一次リーグ 日本1-3オーストラリア
    • 一次リーグ 日本0-0クロアチア
    • 一次リーグ 日本1-4ブラジル
  • 7月・29歳 - 引退
  • 2007年 6月・30歳 - フィーゴ主催・フィーゴチーム対世界選抜慈善試合(フィーゴチーム)
  • 7月・30歳 - 香港の中国返還10周年記念試合 中国代表対世界選抜(世界選抜チームのキャプテン)
  • 12月・30歳 - ジーコ主催チャリティーマッチ『JOGO DAS ESTRELAS(スターゲーム)』
  • 2008年 5月・31歳 - ルイス・フィーゴ主催・フィーゴチーム(世界選抜)対ルーマニア選抜慈善試合(フィーゴチーム)
  • 6月・31歳 - 自身主催『+1 FOOTBOOL MATCH JAPAN STARS vs. WORLD STARS』
  • 7月・31歳 - フランスワールドカップ世界選抜試合『France 98 Selection mondiale』

[編集] 経歴

[編集] 受賞

[編集] タイトル

[編集] プレースタイル

瞬時に周囲を見渡せる視野の広さと抜群のスタミナと強靭な精神力、一瞬にして試合の流れを変えることができるパスを持つと評価されている。

意識が高く、論理的に考えることに秀でているという指摘が多かった。戦術理解、状況分析と修正、コーチング、スペースメイキングなど、目に見えない「考える」プレーのクオリティが高いとされた。90分を通して集中を途切れさせることなく、豊富な運動量でチームを牽引しながら攻撃を組み立てる[19]。自分の考えを明示する中田は試合中に大声で要求や指示を出したが、日本代表の試合では特にチームメイトを鼓舞し檄(げき)を飛ばした。この姿勢は、日本代表にデビューしたときから変わらなかった。

フィジカルコンタクトの巧さ[20]や優れたボディバランスで巧みにボールをキープ[21]、相手選手はファウルで中田を倒さざるを得なくなるので、フリーキックを多く獲得することができた。また、ディフェンスを切り裂くスルーパスや裏へのパス、ドリブルを展開し相手ディフェンスを引きつけておいて空いたスペースに出すスルーパス、楔(くさび)と言われる前衛への縦パス、縦方向へのサイドチェンジなど、常に人の裏をかくプレーを狙っており、縦への速いビルドアップが中田の特徴的なプレーである。日本人としてはパススピードが速く、ボールが相手ディフェンスを切り裂いて走るさまは『キラーパス』と呼ばれた。スペースのできる場所を瞬時に察知して速いパスを出すので、スペースを見つけたら、すぐさまそこに走らなければボールに間に合わないほどのタイミングであるため、日本代表では非常に多くの決定機を演出したにもかかわらずアシストは意外に少ない。一部から味方を殺すという意味で「キラーパス」と揶揄されたことがあったが、ローマ時代のモンテッラのように、スピードがあってスペースに向けて突っ走るタイプのストライカーと相性が良く、セリエAでは流れの中からのアシストを重ねた。パルマ時代のFW・アドリアーノは中田の優れた点は鋭く正確なパスと、相手DFを撹乱する斜め方向のダッシュだとコメントしている[22]

ドリブルは、俗に「重戦車ドリブル」といわれる、フィジカルコンタクトに負けずに相手を引きずり倒して進む、スピードを生かした力強いドリブルを展開。トリックをして抜いていくということは基本的になく、そのうち空くと思われるスペースを即座に判断し、そこにボールをコントロールしながら緩急をつけて抜いていく。しかしドリブラーと評されることは少なく、非常に突出したパス能力から「パサー」と評されることが多かった。

得点力もあり、得点するのが難しいとされるセリエAで通算30ゴールをあげ、左足でも強力なシュートを決めている。30ゴールのうち16ゴールはファーストタッチでのシュートであり、ボールコントロールの上手さが伺える。ミドルシュートやボレーシュートに加え、相手ゴールキーパーの位置を見て正確に蹴り込むシュートも多い。そのためセカンドトップに限りなく近い位置でプレーすることもあった。

[編集] 逸話

[編集] 個人として

  • イタリア語、英語が堪能で、スペイン語、ポルトガル語フランス語も簡単な会話ができるという[23]。高校生のころからセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強を始め[24]、イタリアへ渡って2か月後には通訳なしで答えられるようになっていた。さらにボルトンへの移籍会見では、50分間通訳を通さず英語で応対。イタリアにいるころから英語の家庭教師についており、英語のインタビューには英語で応じていた[25]。映画『GOAL!』の主演男優とはスペイン語で話している映像も放映された。
  • ファッションアイコンとして海外でも有名。2007年、米誌『バニティ・フェア』で第68回ベストドレッサー男性部門の第8位に選ばれた。「洋服が好き」と公言しており、ミラノやパリのファッションショーによく出没している。現役時代は帰国する際のファッションがファンやマスコミの注目を集め「成コレ」(成田コレククションの略)と呼ばれた。ファッション批評家のピーコは、「中田くんを見ていると勇気ですね。ファッションは勇気です」とコメントしている。海外ファッション誌『GQ[26]』に10ページに渡って特集されたこともある。
  • クールなイメージで多くのCMに出演したが、Jリーグデビュー当時、前園真聖と供に出演した日清ラ王の一連のCMシリーズでは、どちらかといえばサッカー選手として絶頂の時期であった前園がクールな役割だったのに対し、中田は三枚目的な役割で出演しており、今となっては大変珍しいCMである。
  • マスコミとの激しい確執は広く知られるところである。1996年のナビスコカップの際に会見の言葉尻だけを捉えた日刊スポーツの報道などをはじめとし、1998年フランスワールドカップ時の一連の出来事(朝日新聞が「『君が代』ダサい」と発言したと報じたが、中田側は「歪められた」[27]と否定。これにより民族運動家や、右翼団体から家族を巻き込んだ嫌がらせを受ける)を契機に「真実を伝えない」と、記者への不信感からマスコミとの軋轢が絶えなくなった。「君が代事件」により、右翼団体から命の危険にさらされ、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードがついていたこともあった(その一人は2001年のK-1 JAPANで優勝したニコラス・ペタス選手)。マスコミへの不信感は決定的となり、一時は日本では生放送以外のメディア出演を拒否し、自分の言葉をじかに伝えるために、ホームページでメールを発信するようになった。このスタイルはスポーツ選手がつくるオフィシャルウェブサイトの先駆けとなり、メディアの前で見せないような素の口調で書くかたちは現在のブログなどで定着した情報発信スタイルの先駆けとなったといえる。ワールドカップ日韓大会後は特別番組を組んで生出演、さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画作成することで、自らが主体となってメディアを利用するようになっていった。
  • メディアとの接触を避けることが多かったことから無愛想で寡黙な性格と思われがちだが、「ドーハ」世代や「アトランタ」世代である中山雅史三浦知良川口能活らは「非常に礼儀正しい」「人懐っこく、明るく、普通の若者」[要出典]と評している。逆に、シドニー世代以降の選手は近寄りがたく思う選手が多かったようで、代表の晩年には、和気藹々とした代表になじまない厳しい態度によって敬遠される存在になってしまった。私生活でも親しい前園真聖は、「(ドイツワールドカップの日本代表に)自分がいたら、プレー以外のことでフォローができたはず。もしかするとヒデも引退を先延ばしにしたかもしれない」と語った[要出典]。中山雅史もそれ以前から「彼は年上にかわいがられるタイプで、今後リーダータイプに変われるかどうか」とコメントしたことがある[要出典]。また、nakata.netTV内でジーコに「三浦知良をメンバーに入れるべきだ」と最後まで提案していたことを明かした。
  • 2005年、貧困問題を訴えるホワイトバンドプロジェクトのクリッキングフィルムに参加。当プロジェクトの日本版は中田の所属事務所サニーサイドアップが協力している。寄付ではないことがわかりにくかったため、賛否両論のあったこのバンドだが、ファッション性の高さもあって、すぐに日本中に流行した。
  • 偏食があり、野菜は形が残っていると食べられず、形状によっては食べられる野菜はジャガイモ、トマト(トマトソース)。引退後に訪れた中国の孤児院で子供たちと一緒に餃子を作ったが、食べるふりをしてしのいだという。

[編集] サッカー選手として

  • 元ベルマーレ監督の植木繁晴によると、初めてフル代表に招集されたとき、日商簿記1級の試験が重なると言って乗り気ではなかったのを、岡田武史(当時の日本代表監督)と二人でガソリンスタンドで説得したという[28]
  • 世界選抜の記念試合や、ジーコジネディーヌ・ジダンロナウドルイス・フィーゴら有名選手の主催するチャリティーマッチに多数出場している。初めて日韓ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合で「世界選抜」の一員として出場した時、チームの主将だったロナウドが後半で途中交代する際にキャプテンマークを渡された。
  • 世界のスーパースターとの交流が数多く伝えられている。アレッサンドロ・デル・ピエロとは一緒に買い物に行き、おそろいで靴を購入した。ファビオ・カンナヴァーロとはクルージングのバカンスを楽しみ、ジーコからは息子の結婚式に招待された。ドイツワールドカップでは、ブラジル戦の入場通路でロナウド、ロナウジーニョカカらと談笑する姿が目撃された。試合終了後には、ピッチに倒れている中田を元同僚のアドリアーノが慰めるシーンが見られた。
  • 試合に出られなかった日は、試合後にランニングマシンで試合時間と同じ90分間走り、試合に出たのと同じになるように心拍数をあげてコンディション管理をしていたという[29]。。
  • サッカーに対する真摯な姿勢から、他チームに移籍しても古巣との試合では相手サポーターから拍手が送られることがあった。パルマ時代のチームメートであり、友人であるカンナヴァーロに「ヒデは一人で頑張りすぎるところがある」と言われた[要出典]。元日本代表監督のジーコは、どんな状況でもすべての力を注ぐことができるのは大きな才能だと評価した[30]
  • 名波浩城彰二のように、海外移籍しながらも国内の元所属チームに戻る選手が目立ったころ、中田も「ベルマーレに戻る日が来るのか」と聞かれて「それはないです。だって僕は(ベルマーレの)スポンサーですよ」と笑いながら答えた[要出典]。引退後の2008年5月、自身が主催するサッカーのエキジビションマッチであるTAKE ACTION! 2008 『+1 FOOTBALL MATCH』に向けた体づくりのために湘南ベルマーレの練習に現れ、予定日数を超えて参加。ベルマーレのチームウェアを着用して練習して、周囲から「現役復帰したようだ」と喜ばれた。本人も「ベルマーレのエンブレムのついたウェアを着ることができてうれしい」と語った[要出典]
  • 引退後はフィリピンスラム街の子供たちとサッカーを楽しんだり、チベットの僧侶たちにサッカーのコーチをすることを約束するなど、各地でサッカーを通じた交流を行っている。中東では情勢が緊張していることもあって国境を越えるのも大変だろうと思っていたところ、周囲に「ナカタ?」と気づかれ、顔パスのような待遇を受けたとされる。だが自身は、これは自分が有名だからではなく、世界中でサッカーが大きな存在である証拠だと語っている[31]
  • 2007年、モンゴルサッカー協会主催のサッカーイベントに大相撲横綱朝青龍とともに招待され、サッカーの試合に参加した。このとき朝青龍は、腰の疲労骨折と肘の靭帯損傷を理由に夏巡業の休場を決めたばかりだったことから「仮病疑惑」が浮上し、2場所の出場停止などの処分に発展した。中田までが批判されたが、日本サッカー協会川淵三郎キャプテンは、中田は海外を拠点に活動していたために朝青龍が故障で夏巡業を休場していたことを知らなかったと擁護した[32]

[編集] 実業家として

  • フランス・フットボール誌が毎年発表しているサッカー選手長者番付で、99年に9位、00年に8位、01年に4位、02年に6位、03年に11位となった。
  • 日本のサッカー界へさまざまな貢献をしている。
    • 故郷の山梨で中学時代の恩師が監督をしているクラブ「フォルトゥナSC」をサポートしており、会員No.0001である。出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府がJ1に昇格した際には、スポンサーを紹介した。また、山梨県にユニフォームを贈呈したこともある。
    • ローマに移籍した22歳の時、J2に降格して資金的に窮したベルマーレを救済するために自身のHPの"nakata.net"の名で広告を出して出資して以来、ずっとスポンサードしている。ユニフォームの背中の「nakata.net」の広告や、2004年、ベルマーレジュニアユースの公式戦用ユニフォーム作成の依頼を引き受け、自らデザインして一式を贈り、2008年には「湘南ベルマーレ持株会」が目標の2000万円に届かない中、ベルマーレは一週間の期限延長とともに中田の持ち株会参加を表明、結果2700万円に達するなど、3シーズンという短い在籍期間にもかかわらず、現役時代からスポンサーとなって元の所属クラブをサポートしている選手は他にいない。ベルマーレも感謝の印として、平塚競技場の7番ゲートを「Hideゲート」と名づけている。
    • なでしこリーグと個人的親交のあった「株式会社モック」の山田納生房代表取締役社長兼CEOスポンサー契約の橋渡し役となった。
    • 2002年と2006年には、W杯に合わせて営業した『nakata.net cafe』で使用された家具のチャリティーオークションの収益で、Jリーグアカデミーへ全Jリーグクラブ分のミニゴールなどを寄贈している。
  • 2000年に、かねてから交流のある小室哲哉が当時主宰していたRojam Entertainmentにプロデューサーとして所属していた。
  • 2005年ニューヨークにビルを購入。建築家の安藤忠雄がリフォームを手がけた。アンドリー・シェフチェンコが「部屋を借りたい」と申し出たといわれる。
  • 菓子が好きなことで知られ、2003年7月9日には菓子メーカー株式会社東ハトの非常勤執行役員CBO(Chief Branding Officer=チーフ・ブランディング・オフィサー)に就任。キャラメルコーンやハーベストのパッケージを一新して話題になった。社員啓発のために配布した共著の絵本「お菓子を仕事にできる幸福」が評判を呼び、一般向けにも刊行した。
  • 所属事務所であるサニーサイドアップの大株主でもあり取締役の次原、小林に次ぐ第三位の株主である(2008年8月の段階で6.91%を保有)

[編集] 所属クラブ

  • 1986年 - 1988年 北新サッカースポーツ少年団
  • 1989年 - 1991年 甲府北中学校
  • 1992年 - 1995年 山梨県立韮崎高等学校
  • 1995年2月 - 1998年 6月 ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)日本の旗
  • 1998年7月 - 2000年 1月 ACペルージャイタリアの旗
  • 2000年1月 - 2001年 6月 ASローマイタリアの旗
  • 2001年7月 - 2003年 12月 ACパルマ(現パルマFC)イタリアの旗
  • 2004年1月 - 2004年 6月 ボローニャ(レンタル)イタリアの旗
  • 2004年7月 - 2005年 7月 フィオレンティーナイタリアの旗
  • 2005年8月 - 2006年 6月 ボルトン・ワンダラーズ(レンタル)イングランドの旗

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