川口能活

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選手名川口能活(かわぐち よしかつ)
高校名清水商
ポジションGK
生年月日1975年8月15日
身長体重179cm/78kg
血液型
出身校・クラブ静岡県富士市
経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川口 能活
名前
愛称 ヨシカツ、Yoshi
カタカナ カワグチ ヨシカツ
ラテン文字 Kawaguchi Yoshikatsu
基本情報
国籍 日本
生年月日 1975年8月15日(33歳)
出身地 静岡県富士市
身長 180cm
体重 77kg
血液型 A型
選手情報
在籍チーム 日本の旗 ジュビロ磐田
ポジション GK
背番号 1
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1994-1998
1999-2001
2001-2003
2003-2004
2005-
日本の旗 横浜マリノス
日本の旗 横浜F・マリノス
イングランドの旗 ポーツマスFC
デンマークの旗 FCノアシェラン
日本の旗 ジュビロ磐田
112 (-)
81 (-)
12 (-)
8 (-)
128 (-)
代表歴2
1997- 日本 116(0)


1国内リーグ戦に限る。2008年12月30日現在 22008年12月30日現在
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

川口 能活(かわぐち よしかつ、1975年8月15日 - )は、日本プロサッカー選手静岡県富士市出身。

ポジションゴールキーパーJリーグJ1ジュビロ磐田所属。

闘志を全面に出し、味方を叱咤激励し、最後尾からチームを鼓舞する。「炎の守護神」、「魂のGK」ともよく表現される。

長年に渡り日本代表に選出され、出場数は井原正巳に次ぐ出場を記録している。

目次

[編集] 来歴

[編集] 高校時代

1991年

名門清水商業高校に入学。1年生ながらレギュラーの座を獲得。 全国高等学校サッカー選手権大会には2度出場した。[1]

第70回選手権大会、望月重良平野孝らと共に出場し、3回戦で前園真聖擁する鹿児島実業高校に敗退。

1993年

雪辱を掲げた第72回選手権大会、田中誠小川雅巳佐藤由紀彦安永聡太郎鈴木悟ら、後のJリーガーを多数擁したメンバーで挑み、チームをキャプテンとして率いた。 準決勝で城彰二を擁する第70回大会の因縁の相手、鹿児島実業高校をPK戦の末に下し、雪辱を果たした。 決勝では1992年度王者の長崎県立国見高等学校と対戦。中心選手である船越優蔵を押さえ込み、2-1で勝利し念願の選手権優勝を果たす。

高校卒業後、横浜マリノスに入団。

[編集] 横浜マリノス時代

1994年

高卒1年目の1994年は、Jリーグ出場なし。

マレーシア国際トーナメント(1994年2月2日クアラルンプール)U-23マレーシア代表戦に、その後のアトランタ五輪日本代表として初出場を果たす。 その後は正GKとして定位置を確立。

1995年

高卒2年目にしてJリーグ出場(4月26日戦)を果たす。当時、日本代表の正GKであった松永成立から定位置を奪い、この年のセカンドステージは全試合出場。 優勝がかかったファーストステージ第25節の清水エスパルス戦で、1-2でリードされた後半ロスタイム、コーナーキックのチャンスでゴール前に上がりヘディングシュートをするものの惜しくもゴールポストに当たり得点にはならなかった(JリーグのGK初ゴールは田北雄気によるPK)。 チームはファーストステージを制し、迎えたチャンピオンシップヴェルディ川崎を下し年間優勝。自身も初タイトルとなる、Jリーグ新人王を獲得。

1996年

Jリーグでは中河昌彦と代わりがわり出場した。 U-23日本代表としてアトランタ五輪予選、本大会に正GKとして出場。予選ではオリンピック出場が懸かった3月24日サウジアラビア戦で好セーブを連発。サウジの怒涛の攻撃を1失点で凌ぎ切り2-1で勝利し、メキシコオリンピック以来、28年ぶりのオリンピック出場に大きく貢献。勝利が決まった瞬間川口は泣き崩れ、勝利を喜んだ。

7月22日アトランタオリンピック1次リーグ。ロナウドリバウドベベットジュニーニョ・パウリスタロベルト・カルロスアウダイールジーダら錚々たる面々を揃えたブラジルと対戦。下馬評で日本の圧倒的不利とされ、試合でも予想通りブラジルが怒涛の攻めを見せたが川口は神がかり的なセーブを連発。失点を許さず、後半に伊東輝悦が挙げた1点を守りきり、計28本のシュートをシャットアウトし、ブラジルを破る大波乱の立役者として大きく賞賛される[2]。試合後、恩師のマリオに抱きつき喜びを爆発させた。(詳細はマイアミの奇跡を参照

7月24日ナイジェリア戦では、攻撃陣も不発に終わり0-2で敗れる。 7月26日ハンガリー戦、自身も叱咤激励し上村健一前園真聖などの得点で逆転勝利するも、勝ち点で及びはしたが得失点差で及ばず予選敗退となった。

マリノスは年間8位でシーズンを終える。

1997年

2月13日、キングスカップスウェーデン戦で、念願の国際Aマッチ初出場を果たす。 その後常にA代表に選ばれ、以後長期に渡り楢崎正剛と共に日本代表のゴールマウスに君臨する。

フランスW杯・アジア最終予選の全試合に出場し、日本のW杯初出場に貢献。 特にアウェー戦での活躍が大きく、9月19日アブダビでのUAEでは、劣勢の状況の中、好セーブ連発で0-0と相手を封じ込め貴重な勝ち点1をもたらした。 日本のサッカーの歴史に深く刻まれる“ジョホールバルの歓喜”でも2失点はしたが、安定した守備を披露した。

横浜はファーストステージは5位、セカンドステージは3位で年間3位でシーズンを終える。

1998年

フランスW杯本大会のメンバーにも選出され全試合に出場。初戦のアルゼンチン戦では相手の23本のシュートを1失点のみで抑え、敗れたものの善戦した。その後のクロアチアジャマイカ戦でも奮闘するが敗れ、自身初のW杯は一次リーグ敗退に終わった。

横浜は前半、後半ともに4位で年間4位。

[編集] 横浜F・マリノス時代

1999年

チームの名称は変更。自身、28試合に出場。チームは前半7位、後半3位、年間5位に終わる。

A代表は、試合数の少なさもあって3試合に留まる。

2000年

Jリーグファーストステージで久々の優勝を果たすが、鹿島アントラーズとのチャンピオンシップは初戦こそ引き分けたものの第2戦では自身のファンブルを含め3失点を喫し敗れ、1995年以来の年間優勝は成らなかった。

日本代表ではフランス大会後に就任したフィリップ・トルシエ監督の下では徐々に楢崎にポジションを譲る機会が多くなったが、楢崎が負傷し、代わって10月14日からのAFCアジアカップ2000では全試合に出場。アジアカップ、負けなしという最高の結果をもたらす。10月29日サウジアラビア戦では、積極的な守備と、終盤の劣勢に回る展開には神懸かり的なセーブで優勝に大きく貢献。活躍が報われ、その後のFIFAコンフェデレーションズカップ2001で正GKに復帰。

横浜はファーストステージを制し、セカンドステージ5位の年間2位と完全優勝をあと一歩のところで逃した。

2001年

イングランドへの海外移籍を決定。 Jリーグは25試合出場。チームも前半15位、後半10位の年間13位とここ最近で最低の順位に終わる。

[編集] 国外移籍

2001年

イングランドポーツマスFCへGKでは日本人で初の国外移籍を果たす。地元のファンやマスコミは日本からの大型助っ人と歓迎した。しかし、本人は英語も話せたが、試合中でのコーチング・瞬時のクリア指示など意思疎通の面で難を見せ、会長から疎まれていたこともあり出場もままならない苦悩の時期が続いた。

2002年

試合勘など、不満の残る状況が続きコンディションを落とし日韓W杯では2大会連続で代表に選ばれるも、出場の機会は叶わず、またしても苦悩する。

2003年

周りからは、あまりの不調に日本復帰した方がいいのでは等の声があったが、「海外で位置を確立し、成功するまで日本には帰らない」と語り、2003年、出場機会を求めてデンマークのFCノアシェランに移籍。しかしここでも出場には恵まれなかった。

2004年

だが2004年アジア杯で全6試合に出場。大活躍を見せ久々に脚光を浴びる。イラン戦で好セーブを連発。完封勝利に貢献すると、ヨルダン戦でもファインセーブを連発。1-1のまま縺れ込んだPK戦では、入ったら負ける2本のシュート(3回終了時1-3)を止め、奇跡的な勝利を呼び込む。中国との決勝戦でも、アジア杯を締めくくるような活躍をして2大会連続優勝、3度目のアジア制覇に大いに貢献し、自身の地位も復活させた。アジアカップ2004 ベストイレブンのタイトルも獲得した。

2004年のシーズンオフ、日本復帰することが決まった。セレッソ大阪などが獲得に乗り出していたが、地元静岡のジュビロ磐田に移籍した。

[編集] ジュビロ磐田時代

2005年

背番号は自身、久しぶりの1を背負う。移籍初年は29試合に出場。チームは6位でシーズンを終える。

日本代表でも安定した守備で正GKとしてドイツW杯アジア最終予選突破に貢献。

2006年

自身3度目となるドイツW杯のメンバーに選ばれ2大会ぶりに正GKとして出場。初戦のオーストラリア戦。オーストラリアの再三の攻撃をファインセーブで凌ぐも、飛び出しのミスから同点にされ[3] 、終盤に3失点を喫する。負ければグループリーグ敗退が決定の、対クロアチア戦では、宮本恒靖が与えたスルナのPKをセーブし、ワールドカップにおいてPKを止めた史上20人目のGKになった。[4][5] ブラジル戦では計21本のシュート(ほとんど枠内)を浴び4失点を喫するも、ここでも好セーブを見せ、グループリーグ敗退に終わったチームの中から『1次リーグ敗退国ベストイレブン(FIFA発表)』控えGKに選定された(正GKはチェコペトル・チェフ)。またワールドカップ2006スーパーセーブベスト10中6位に選ばれた。

その後の日本代表監督イビチャ・オシム就任以降は、不動の守護神、そしてキャプテンとして、日本代表を率引する。 背番号も、登録上の関係でAマッチの公式戦以外では、2002年以来の背番号1を与えられる。

磐田は5位でシーズンを終える。自身初のJリーグ ベストイレブンのタイトルを獲得。

2007年

自身3度目のAFCアジアカップ2007に正GKとして全試合出場。

7月21日のW杯の因縁の相手、オーストラリアとの準々決勝。1-1で延長戦でも決着が着かず、2004年のアジアカップと全く同じ環境でPK戦。1番手のハリー・キューエルを阻止。続く2番手ルーカス・ニールも阻止し、後続の日本が決め、1-1(PK4-3)で勝利し、3年前のヨルダン戦とまったく一緒のスコア、セーブで大車輪の活躍となった。[6]

磐田はJリーグ最低の9位でシーズンを終える。 シーズンオフ、契約期間の満了に伴い、ガンバ大阪などが獲得に乗り出したが、磐田に残留。

2008年

3月26日2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選(3次予選)、アウェーでのバーレーン戦で、相手のセンタリングのボールを捌ききれず痛恨の失点を喫した。この後、楢崎が定位置に就くようになった。

5月10日第12節、新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目、GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場を達成する。[7]

7月20日第18節大分戦(九州石油ドーム)で、ウェズレイと交錯した際にスパイクが顔に直撃し、出血が止まらない大怪我に見舞われた。診断は口の内部を4針縫う裂傷。今でもその縫合の痕が顎部に見受けられる。 このことが試合でファール判定されなかった為、後日川口がJリーグに対し、抗議文を提出した。[8]

[編集] 特徴・スタイル

  • ゴールキーパーとしては小柄な体格であるが、ゴール前での果敢な飛び出しと俊敏な反応が武器である。
  • 他のGKに比べ、腰を低くし、コンパクトに構えるのが特徴。
  • ペナルティーキックにかなりの自信を持ち、PKの阻止率は高い。実際にこれまでの重要な国際試合で神懸かり的な活躍を見せている。1995年のプロ入り以来、11回PK戦を経験しているが、1本でも止めた時は必ず勝利している。川口がPKを行うときの周りの雰囲気・キッカーの動きを予測するここ一番の集中力は奇跡と称される。(本人曰くPKを止めるコツがあるらしいが「企業秘密」を貫いている)。
  • 自身からのリスタートはパントキックより、スローイングが多い。素早い攻めのために行う川口の攻めである。
  • ハイボールの処理が欠点で、しばしばイージーミスから失点を許している。
  • 昔から「練習の虫」と言われるほど努力家で、練習量が多いことで有名。
  • 豊富な経験を生かし、若手選手などに解りやすいアドバイスをしている。そのためクラブチーム、日本代表問わず尊敬している選手が多い。
    • 以前は味方を怒鳴り散らす場面が日常的だったが、2004年のアジア杯頃から、温厚な部分も試合中に恒間見えるようになった。磐田移籍後は、また激しさを露にするようになった。
    • DFラインの統率・コーチングは群を抜いて光るものがあり、田中誠中沢佑二からも信頼されている。

[編集] 所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

[編集] 人物

[編集] 選手として

  • かつては、自らがストイックなあまり周囲に厳しすぎるという一面もあり、チームメイトに対しての怒鳴るコーチング、叱責などは日常茶飯で、高校時代からのチームメート田中誠は、「彼は高校時代、いつ休んでるのかわからないくらい朝から晩まで練習していた、試合中は後ろ(=川口)がうるさくて、耳が痛くなるくらいだった」と語っていた。
  • ファンをとても大切にしている。横浜時代に「100人いたら100人にサインする」と語っていたように、試合後の観客に対する感謝の態度もよい。
  • ゴール前での相手選手との衝突により顎の肉が貫通する大怪我を負い、その1週間後の試合に顎を保護した姿のままゴールマウスに立っており、その試合で相手チームにゴールを許してしまい、ゴール横の水の入った容器を地面に投げつけ、蹴り、その後、地面に手をついて怒り泣き狂いながら「何回同じ事すりゃ気がすむんだよ!」「チキショー」など、自分に向かって罵声を飛ばした時もあった。(やべっちFCGET SPORTSで放送された)
  • 元日本代表監督のイビチャ・オシムについては、「今までの監督の中で一番自分の能力を引き出してくれる」「(同監督への批判的な意見に対して)あんな監督いないですよ、オシムさんが日本のサッカー界にいてくれていることに感謝しなきゃいけない」[9]と話している。
  • デンマーク代表のピーター・シュマイケルを目標にしている。
  • 2008年6月から、「原点に立ち返りたい」という理由でスパイクシューズを白色だったものから黒色に変えた。[10]黒色スパイクは清水商業在学以来で、日本代表では初。

[編集] その他

  • Jリーグオールスターにおいて三浦知良と並び、最多となる9回の出場を果たしている。
  • 選手としてのストイックな姿勢と裏腹に、普段は天然ボケを連発するキャラクターとして数々の逸話を残している。
  • 第47回NHK紅白歌合戦の審査員を務めた。
  • 地元である富士市と、眼前にそびえる富士山を、こよなく愛している。[11][12]
  • 2005年1月に元スカンジナビア航空勤務の日本人客室乗務員と結婚。2007年3月25日、第1子(女の子)が誕生。
  • 2005年の衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査のイメージキャラクターを加藤あいと共に務めた。
  • 日産自動車のCMで、イチローと共演している。
  • 親交ではテリー伊藤と仲がよく、不調な時は心配し、川口が結婚した時などは大変喜んでいた。[13]
  • 中村俊輔とは横浜時代から仲が良いことで知られ、信頼も厚い。やべっちFCで「能活さんと一緒に試合に出られたらいい」などと語っていた。
  • 横浜マリノスに入団したての頃は、女性に人気があり、誕生日などには山のようなプレゼントが届けられたこともあり、ある雑誌の表紙の撮影の際も、カメラマンから「俳優になったほうがいい」と言われたほどである。しかしアトランタオリンピックで一次リーグに敗退したあと、チームやキャプテンの前園真聖を批判したことにより、本来のストイックなイメージが伝わるようになる

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1994 横浜M - J 0 0 0 0 0 0 0 0
1995 横浜M - J 41 0 - 2 0 43 0
1996 横浜M - J 15 0 13 0 0 0 28 0
1997 横浜M 1 J 22 0 0 0 2 0 24 0
1998 横浜M 1 J 34 0 0 0 1 0 35 0
1999 横浜FM 1 J1 28 0 6 0 2 0 36 0
2000 横浜FM 1 J1 28 0 5 0 3 0 36 0
2001 横浜FM 1 J1 25 0 7 0 - 32 0
イングランド リーグ戦 FLカップ FAカップ 期間通算
2001-02 ポーツマス 1部 11 0
2002-03 ポーツマス 24 1部 1 0
2003-04 ポーツマス 24 プレミア 0 0
デンマーク リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
2003-04 ノアシェラン 30 デンマークリーグ 8 0
2004-05 ノアシェラン 30 デンマークリーグ 0 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2005 磐田 1 J1 29 0 1 0 3 0 33 0
2006 磐田 1 J1 34 0 3 0 1 0 38 0
2007 磐田 1 J1 32 0 3 0 1 0 36 0
2008 磐田 1 J1 33 0 1 0 0 0 34 0
通算 日本 J1 321 0 39 0 15 0 375 0
イングランド プレミア 0 0
イングランド 1部 12 0
デンマーク デンマークリーグ 8 0
総通算 341 0 38 0 15 0 395 0
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2005 磐田 1 1 0
通算 AFC 1 0

[編集] タイトル・表彰

サッカー
メディア

[編集] 初出場

[編集] 代表歴

[編集] 主な出場大会

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 116試合 0得点(1997年 -)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1997 21 0
1998 9 0
1999 3 0
2000 8 0
2001 9 0
2002 2 0
2003 2 0
2004 11 0
2005 14 0
2006 19 0
2007 12 0
2008 6 0
通算 116 0


  • 1994年:8試合
  • 1995年:15試合
  • 1996年:13試合

[編集] 出版

[編集] 書籍

[編集] ビデオ

  • 川口能活 /横浜マリノス・オフィシャル・ビデオ (1996年11月21日発売、ポニーキャニオン

[編集] 出演

[編集] 番組

[編集] CM

[編集] イメージキャラクター

  • セキュリティハウス・センター(契約会社)[19]

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ 高校サッカー選手権日本代表選手たちの「原点」 川口能活
  2. ^ 通信社揃って川口を「ヒーローだ」などと絶賛した。AP通信は、「打っては止め、打っては止め」という表現を何度もした。
  3. ^ クローズアップ川口能活「判断は間違っていなかった」 - gooスポーツ:NumberWeb
  4. ^ ワールドカップ 日本―クロアチア 奇跡を起こす男 川口能活:スポーツナビ
  5. ^ 川口、7.87で最高点:読売新聞、ニッポンのMVP~クロアチア戦
  6. ^ 日本 PK戦を制して3大会連続の準決勝進出 - APFBB
  7. ^ 磐田GK川口300試合「褒めて」チーム勝たす - サッカーニュース:日刊スポーツ
  8. ^ 磐田GKが顔面蹴られ負傷退場 - サッカーニュース:日刊スポーツ
  9. ^ ナンだ!?での発言。
  10. ^ 川口“原点”黒スパイクで鬼セーブ(サッカー) - スポーツニッポンSponichi Annexニュース
  11. ^ 富士市天馬出身プロサッカー選手川口能活さんインタビュー
  12. ^ TNC静岡ジモティーズ:川口能活(サッカー選手)
  13. ^ 日刊!テリー伊藤の痛快スポーツニュース
  14. ^ 情熱大陸:川口能活
  15. ^ SmaSTATION
  16. ^ 川口能活さん、加藤あいさんからのメッセージ:衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査
  17. ^ 選挙啓発イメージキャラクター
  18. ^ NEC新CMに川口能活がゲスト出演:デジタル家電総合情報サイト
  19. ^ 川口能活選手をキャラクターにセキュリティハウスが契約:防犯のセキュリティハウス
  20. ^ アシックス契約選手:川口能活

[編集] 外部リンク

先代:
田坂和昭
Jリーグ新人王
1995
次代:
斉藤俊秀
先代:
ストイコビッチ
日本年間最優秀選手賞
1996
次代:
中田英寿
先代:
吉田宗弘
Jリーグベスト11(GK)
2006
次代:
都築龍太
先代:
坂田大輔伊東輝悦佐藤寿人
Jリーグフェアプレー個人賞
2008
次代: