城彰二
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| 選手名 | 城彰二(じょう しょうじ) |
| 高校名 | 鹿児島実業 | ポジション | FW | 生年月日 | 1975年6月17日 |
| 身長体重 | 179cm/72kg |
| 血液型 | |
| 出身校・クラブ | 北海道室蘭市 | 経歴 |
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 城 彰二 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ジョウ | |
| カタカナ | ジョウ ショウジ | |
| ラテン文字 | JO Shoji | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1975年6月17日(33歳) | |
| 出身地 | 北海道室蘭市 | |
| 身長 | 179cm | |
| 体重 | 72kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | FW | |
| 利き足 | 右足 | |
| 代表歴 | ||
| 1995-2001 | 35 (7)
|
|
城 彰二(じょう しょうじ、1975年6月17日 - )は、北海道室蘭市で生まれ、鹿児島県姶良郡加治木町育ちの元プロサッカー選手。ポジションはFW。元サッカー日本代表。
目次 |
[編集] 来歴・人物
本人が北海道の中学のときに親が2度ほど事業に失敗し、家族と一緒に両親の出身地である鹿児島県へ帰省することとなる。
加治木町立加治木中学校卒業・鹿児島実業高等学校卒業。
鹿児島実業高校サッカー部では松澤隆司監督の指導を受け、二年先輩に前園真聖、同学年に遠藤彰弘や横山博敏などがいた。高校3年時の高校サッカー選手権大会第72回大会でベスト4に入った(大会得点王はチームメイトの野見山秀樹)。
卒業後はJリーグのジェフユナイテッド市原に入団し、ルーキーとしてデビュー戦でゴールを挙げ、それから4試合連続ゴールで注目を集めた。市原では若くしてチームを象徴する選手となり、将来の期待を集めたが、日本代表での活躍や海外移籍などを見据えたキャリアアップを理由にして1997年に横浜マリノス(1999年から横浜F・マリノス)へ移籍した。マリノスでは高校同期生の遠藤と同僚となり、チームの中心選手として活躍した。
日本代表では23歳以下の選手で構成されるアトランタオリンピックの代表チームに選出され、1996年の本大会に出場した。結果はグループリーグ敗退だったが、ブラジル戦では相手GKヂーダと競り合って伊東輝悦のゴールを演出し、マイアミの奇跡と呼ばれる勝利に貢献した。次いでフランスW杯アジア最終予選で悲願の初出場に貢献した。ジョホールバルの歓喜と呼ばれ、日本がイランを破って本大会出場を決めた1997年11月16日のアジア第三代表決定戦ではチームの窮地を救う同点ゴールを決めた。
しかしエースストライカーとして臨んだフランスW杯本戦では得点することが出来ず、チームも3戦全敗を喫してしまい、特にアルゼンチン戦ではTVで解説を務めていたラモス瑠偉により「シュートを外してヘラヘラ笑っている」と激しく批判され、戦犯として日本中で激しいバッシングを受ける。城はフランスW杯以後も代表に選出されていたが、2001年3月の対フランス戦を最後に代表から外れた。
城はフランスW杯での挫折からの巻き返しを誓い、2000年1月には念願だった自身初(そして唯一)の欧州リーグ挑戦としてスペインのリーガ・エスパニョーラ1部・バリャドリードへ先方のシーズン途中でレンタル移籍し、ほぼレギュラーとして活躍。得点こそオビエド戦で挙げた2得点にとどまったが、ポストプレーなどでのチームへの貢献が評価された。シーズン終了後に完全移籍やレンタルの延長が検討されたが、日本代表の試合での負傷がきっかけで、高校時代から膝の前十字靭帯を切ったままプレーを続けていたことが発覚し、契約を見送られてしまった。
スペインでのプレーが出来なくなった城は横浜F・マリノスへ復帰したが、その後はケガや体調不良などで得点数が激減した。横浜F・マリノスは城がスペインにいた2000年前半のJリーグ1部(J1)・1stステージで5年ぶりのステージ優勝を遂げ、エースの不在をはね返した。
逆に同年12月のJリーグチャンピオンシップにおける2試合無得点の敗退(鹿島アントラーズが優勝)やリーグ最終戦までJリーグ2部(J2)降格の危機が残った2001年の低迷は城の不振が原因とされ、サポーターからの批判を浴びた。ヴィッセル神戸に移籍した2002年も1ゴールのみに終わり、年末には神戸から翌シーズンの契約延長を見送られ、J1でのプレーはこの年限りとなった。その後、城は2003年にJ2の横浜FCへ入団した。
社長の奥寺康彦が市原のゼネラルマネージャーや監督として獲得や指導に関わった城を勧誘した事で実現し、高校の同期生の横山と同じチームになった。城はレギュラーとして試合に出場し、その合間にテレビのスポーツ番組やバラエティ番組への出演もしばしば行った。財政難や劣悪な練習環境に苦しむ横浜FCは低迷を続け、J1昇格を予想される事はほとんど無かったが、城はコンスタントな活躍を続け、徐々に同僚やサポーターからチームリーダーとしての信頼を勝ち取っていった。城は後にスポーツ雑誌「Number」のインタビューに答え、この時期の意識変化は妻の助言に依る所が大きかったと述べている。
2006年には主将として高木琢也監督のもと三浦知良とツートップを組み、クラブ初のJ1昇格を決めたが、前述の靭帯の故障が限界に達し、2006年シーズンを最後に31歳での現役引退を発表。シーズン中にも拘らず11月23日・三ツ沢公園球技場で行われた徳島ヴォルティスとの試合後にファンの前で引退の挨拶を行った。このとき、当時39歳の三浦知良は「俺よりも若い」と引退を惜しんでいる。そして、現役最後の公式戦となった12月2日の愛媛FC戦では試合後のセレモニーでJ2優勝カップを掲げ、三ツ沢サッカー場のチケットを完売にした1万人以上のサポーターからの歓声で送り出されて、13年間のプロサッカー選手活動を終えた。
引退後の2007年2月にはJリーグ百年構想メッセンジャーに任命され、Jリーグが目標に掲げる地域スポーツ文化形成のための各種広報活動に参加している。この他、テレビなどで試合解説を行っている。同4月より日本テレビ放送網の「サッカーアース」コメンテーター出演。
なお、引退試合開催に必要な公式戦500試合出場は満たすことは出来なかったが、日本代表に貢献した功績を鑑みて引退試合の開催が許可された。城の引退試合は最終所属クラブである、横浜FCの主催試合として2008年1月27日に三ツ沢公園球技場で行われた。
[編集] エピソード
- 山田玲司著の『絶望に効くクスリ』3巻に登場している。
- ゴールを決めると前転宙返りのパフォーマンスをすることがあった。
- 名前は彰二だが長男である。これは、名前に入っている言葉通り「上昇」を願い、「1」から上昇するのでは無く、「2」から「1」に向かって上昇して欲しいと言う願いが込められているらしい。
- 1998年のW杯後にフランスからの帰国後、一部の心ないファンにより成田国際空港で清涼飲料水をかけられる事件が発生。選手とファン(サポーター)との関係、あるいは地下鉄サリン事件などとの関連で指摘されていた要人警護のあり方などが議論になった。城自身は「ファンからの批判を甘受する」として冷静な対応をとりバッシングは一時沈静化したが、汚名を払拭するには至らず、その後長期に渡り柳沢敦と共に「ヘラヘラ笑いながらシュートを外す日本のフォワード」として日本代表の決定力不足の象徴として批判されることとなってしまう。
- 上述の成田空港での経験からか、柳沢がドイツW杯・クロアチア戦で決定的なチャンスでシュートミスをしたことについて庇う発言をしているが、しかし、柳沢の試合後に出した「急にボールが来たので…」という発言に関してはやや疑問視していた。[要出典]
- 1998年3月1日のダイナスティカップ韓国戦で、センターサークル付近で柳想鐵が肘を城の顔面に入れ前歯が折れる。現在前歯が差し歯になっている。
- 現役時代、かねてから地元北海道のコンサドーレ札幌入りを希望していたらしく、市原時代の同僚であり札幌OBの野々村芳和もクラブに打診していたが移籍金の高さがネックとなって実現しなかったことが2007年5月19日のEスポーツ(北海道放送)出演時に明らかになった。現在は北海道で解説者として活躍している野々村の解説を参考に日々解説者の勉強に励んでいるという。また、この日の放送で快進撃を続ける札幌のサッカーが前年の横浜FCのものと似ていると評している。
- 弟の城和憲もサッカー選手としてJFL・ホンダロックサッカー部に所属していた。(2007年に現役引退し社業に専念)
- 2007年12月、城彰二のフットボール人生を綴ったオフィシャルDVD 「JO DREAM」発売。
[編集] 所属クラブ
- 1998年 - 1990年 加治木中学校
- 1991年 - 1994年 鹿児島実業高等学校
- 1994年 - 1996年 ジェフユナイテッド市原
- 1997年 - 1999年 横浜マリノス/横浜F・マリノス
- 2000年 - 2000年7月 バリャドリード(スペイン)
- 2000年7月 - 2001年 横浜F・マリノス
- 2002年 ヴィッセル神戸
- 2003年 - 2006年 横浜FC
[編集] 経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1994 | 市原 | - | J | 33 | 12 | 2 | 1 | 2 | 0 | 37 | 13 |
| 1995 | 市原 | - | J | 43 | 14 | - | 0 | 0 | 43 | 14 | |
| 1996 | 市原 | - | J | 23 | 9 | 13 | 4 | 1 | 0 | 37 | 13 |
| 1997 | 横浜M | 9 | J | 21 | 12 | 0 | 0 | 2 | 2 | 23 | 14 |
| 1998 | 横浜M | 9 | J | 31 | 25 | 0 | 0 | 1 | 0 | 32 | 25 |
| 1999 | 横浜FM | 11 | J1 | 25 | 18 | 6 | 3 | 3 | 1 | 34 | 22 |
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999-00 | バリャドリード | 25 | プリメーラ | 15 | 2 | ||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2000 | 横浜FM | 31 | J1 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 |
| 2001 | 横浜FM | 11 | J1 | 25 | 2 | 8 | 4 | 1 | 0 | 34 | 6 |
| 2002 | 神戸 | 9 | J1 | 25 | 1 | 6 | 2 | 1 | 0 | 32 | 3 |
| 2003 | 横浜FC | 25 | J2 | 33 | 12 | - | 1 | 4 | 34 | 16 | |
| 2004 | 横浜FC | 25 | J2 | 35 | 8 | - | 2 | 0 | 37 | 8 | |
| 2005 | 横浜FC | 9 | J2 | 40 | 12 | - | 1 | 0 | 41 | 12 | |
| 2006 | 横浜FC | 9 | J2 | 43 | 12 | - | 0 | 0 | 43 | 12 | |
| 通算 | 日本 | J1 | 230 | 95 | 35 | 14 | 11 | 3 | 276 | 112 | |
| 日本 | J2 | 151 | 44 | - | 4 | 4 | 155 | 48 | |||
| スペイン | プリメーラ | 15 | 2 | ||||||||
| 総通算 | 396 | 141 | |||||||||
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1990年 ジュニアユース代表
- 1992年 ユース代表
- 1996年 アトランタオリンピック日本代表
- 1998年 ワールドカップフランス大会日本代表
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 35試合 7得点(1995-2001)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1995 | 1 | 0 |
| 1996 | 3 | 0 |
| 1997 | 13 | 4 |
| 1998 | 10 | 1 |
| 1999 | 5 | 0 |
| 2000 | 2 | 2 |
| 2001 | 1 | 0 |
| 通算 | 35 | 7 |
[編集] 関連項目
- マイアミの奇跡(1996年 アトランタオリンピック)
- ジョホールバルの歓喜(1997年 ワールドカップフランス大会アジア地区最終予選)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
| J1記念ゴール | ||
| 前回: 1000ゴール メディナベージョ |
1500ゴール 城彰二 1995.4.5 |
次回: 2000ゴール エジソン |
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