三浦淳宏
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| 選手名 | 三浦淳宏(みうら あつひろ) |
| 高校名 | 国見 | ポジション | FW | 生年月日 | 1974年7月24日 |
| 身長体重 | 176cm/69kg |
| 血液型 | |
| 出身校・クラブ | 大分県大分市 | 経歴 |
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 三浦 淳宏 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | アツ | |
| カタカナ | ミウラ アツヒロ | |
| ラテン文字 | MIURA Atsuhiro | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1974年7月24日(34歳) | |
| 出身地 | 大分県大分市 | |
| 身長 | 175cm | |
| 体重 | 73kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | ||
| ポジション | MF | |
| 背番号 | 17 | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1995-1998 1999-2000 2001-2004 2005-2007途 2007-現在 |
145(22) 55(7) 79(10) 76(21) 14(0) |
|
| 代表歴2 | ||
| 1999-2005 | 25(1)
|
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1国内リーグ戦に限る。2007年12月16日現在 22007年12月16日現在 |
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三浦 淳宏(みうら あつひろ、1974年7月24日 - )は、日本のプロサッカー選手。大分県大分市出身。現在はJ2の横浜FCに所属。ポジションはMF、DF(主にサイドハーフ)が専門であるが、チーム事情によってはGK以外はどこでもこなせるユーティリティーな選手である。妻は元U-21女子日本代表の大竹由美。
目次 |
[編集] 来歴
国見高校時代に高校選手権で優勝2回、ベスト4が1回と輝かしい成績を残し、当時の高校サッカー界で超高校級として名を馳せる。
国見高校卒業後、青山学院大学入学。 1995年、大学を中退し、横浜フリューゲルスに入団した。
フリューゲルスではジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイールのブラジルトリオや、山口素弘、前園真聖、楢崎正剛らと共にプレー。 入団当初は攻撃的MFだったが、左サイドにコンバートされると頭角を表し、レギュラーに定着してからはジーニョとのコンビでサイドを切り崩していった。1996年と1997年1stステージには鹿島アントラーズと壮絶な優勝争いを演じた。
フリューゲルスの吸収合併・消滅が決定した1998年、フリューゲルスとして最後の天皇杯に臨み、見事優勝。 合併が発表された10月29日以降、天皇杯優勝までリーグ戦を含めて(9試合)一度も負けることはなかった。 天皇杯優勝後にチームの解散を嘆き、大粒の涙を流した姿に多くのサポーターが共感した。
1999年、フリューゲルスと合併した横浜F・マリノスにスライド加入。 同年に日本代表に初選出され、6月6日のペルー戦で代表デビュー。
2000年には、楢崎正剛、森岡隆三らと共にオーバーエイジとしてシドニーオリンピックに出場し、メキシコシティオリンピック以来32年ぶりとなる決勝トーナメント進出を果たす。
2001年、東京ヴェルディ1969に移籍。東京スタジアム(現・味の素スタジアム)の柿落としとなったJリーグ開幕戦『東京ダービー』で直接FKを"ブレ球"にて決め、スタジアムのファーストゴール記録者となった。ヴェルディ移籍当初は中盤の右サイドであったが、左SBにコンバートされた。
2003年よりジーコジャパンに選出され、三都主アレサンドロのサブとして4バックの左SBでプレー。 ただ皮肉なことに代表に参加している間に、ヴェルディではポジションを争っていた若手有望株の相馬崇人が左SBで結果を残し、チームでの立場は微妙なものとなった。
2004年にはオズワルド・アルディレス監督の「代表招集でクラブの練習に出られない三浦より、常にクラブにいる相馬を使う」という方針で相馬に完全にポジションを奪われることになった。 そのため、『日本代表選手がクラブでは控え』という奇妙な立場に立たされるが、「いつか自分が必要とされるときが来る」と信じて、腐ることはなく練習に打ち込んだ。
2005年、新しいチームの柱を探していたヴィッセル神戸の誘いにより移籍する。 移籍直後からトップ下のポジションでプレーし、三浦知良に代わってチームキャプテンに就任した。 しかし、シーズン中盤に怪我のため多くの試合を欠場。 チーム内で三浦の存在感は特に際立っていたため不在の影響は大きく、チームの順位は急降下した。 出場した試合ではチームを必死に鼓舞したが、時すでに遅くチームは最下位を独走してシーズンは終了し、J2に降格してしまった。
シーズン終了後は、ドイツW杯出場のためにJ1チームに移籍かと思われた(このときは三浦の故郷のチーム大分トリニータへの移籍が噂され、フロントも移籍を容認していた)。 しかし、「(J2降格について)自分に責任をすごく感じてたし、(チームを見捨ててJ1チームに移籍することは)このまま男として絶対にできなかった。」と神戸残留を表明。チームの1年でのJ1復帰と自身のJ2チームからの日本代表入りを目指していたが、結局代表に呼ばれることはなかった。
2006年はキャプテンとしてチームを牽引。 横浜FC・柏レイソル・ヴィッセル神戸の3強によるJ1昇格争いは3チームとも最終節まで勝ち点差2の中にひしめき合う状態で自動昇格を争った。 2位で迎えた最終戦、勝てば自動昇格が決まるベガルタ仙台戦で三浦は退場となってしまい、チームも敗北。 3位柏に逆転で2位の座を奪われ神戸は3位となり、J1・16位のアビスパ福岡とのJ1・J2入れ替え戦に回ることとなった。 なお、三浦は最終節の退場の影響で、入れ替え戦の第1戦には出場できなかった。 そして入れ替え戦の結果、神戸が悲願の1年でのJ1復帰を決め、三浦の男泣きの姿には多くのファンの感動を誘った。その後三浦は「生涯神戸宣言」を誓った。
しかし、2007年6月3日にサテライトでの名古屋戦後に監督批判(三浦本人はしていないと主張している)をしたとして、10日間の謹慎処分を受けキャプテンを辞任。 その後も松田監督との溝は埋まらず、6月26日に三浦は神戸に籍を置いたまま退団する事が決定された。
その後、「J1クラブへの移籍は認めない」という神戸側の意向によりJ2のアビスパ福岡への移籍が有力視されていたが、あくまでJ1クラブでのプレーを熱望した三浦は拒否。 そして8月12日、いわば古巣とも言える横浜FCへの移籍が発表された。 なお移籍時の契約で、同年10月20日に行われた古巣の神戸戦には出場できなかった。 神戸サポーターへの配慮と思われるが、世界的に見れば古巣クラブとの対戦時に出場を自粛することは珍しいことではない。 ちなみに三浦が出場しなかったこの試合で0-3と大敗してクラブはJ2に降格するという皮肉な結末となってしまった。
2008年はJ1昇格を目指すチームの中で左サイドバック、ボランチ、攻撃的MFとしてプレーしている。 今年の個人目標は「2m」(本人曰く、相手を抜くのも相手からボールを奪うのも2mの瞬間的な速さ次第との事)である。
[編集] プレースタイル
攻撃力抜群のマルチプレーヤー。左右どちらの足もそつなくこなし、ボールテクニックには定評がある。 鋭い切り返しを見せるドリブル、そこから繰り出される絶妙なクロス、そして強力なシュートは、敵の守備陣にとっては脅威となる。
プロでは主に左アウトサイドの選手であったが、小学生から大学生時代にかけて、センターフォワードやウイングをこなしたこともあり、右アウトサイド、左サイドバック、トップ下、ボランチ、フォワードと数多くのポジションをこなすことができる。
FKを得意としており、独特の回転がかかった鋭く落ちるFK、そして“無回転”の「バイスボール(本人命名)」は、世界でも屈指である。 三浦はTVで「世界で自分にしか蹴れない」と自負していた (実際はアレッサンドロ・デルピエロやジュニーニョ、アンドレア・ピルロ、C・ロナウドなど多くの選手が蹴ることが出来る)。 Jリーグでの直接フリーキックによる最多得点の記録を持っており、リーグでも1、2を争うフリーキッカーであるが、代表ではアレックスや中村俊輔が蹴ることが多く、国際Aマッチではほとんど蹴る機会がなかった。
ドイツワールドカップ・アジア予選ではサブ組ではあったが、練習でもチームを盛り上げ、裏からジーコジャパンを支え続けた。
幼少時代は野球で捕手をしており、西武ライオンズの正捕手になりたいという願望も持っていた。その所以から強肩で、ロングスローも得意とする。
[編集] パーソナリティ
国見高校卒業のため、Jリーグに在籍する国見OBにとっては頼れる兄貴分である。 代表では同じ国見の後輩大久保嘉人の教育係であり、代表で結果が出ずに悩む大久保を叱咤激励していた。
同僚や後輩からは「アツ」、「アツさん」と呼ばれて慕われている。 しかし、由美夫人がフジテレビのジャンクSPORTSで自分の夫を「アツくん」と発言してしまったため、サポーターの一部では「アツくん」で定着してしまった。
自身のブランド「VISEBALL」のウェア等がある。
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
- 1984年 - 1986年:大分市立明治北小学校(明治北SSC)
- 1987年 - 1989年:大分市立明野中学校
- 1990年 - 1992年:長崎県立国見高等学校
- 1993年 - 1995年:青山学院大学
プロ経歴
- 1995年 - 1998年:横浜フリューゲルス
- 1999年 - 2000年:横浜F・マリノス
- 2001年 - 2004年:東京ヴェルディ1969
- 2005年 - 2007年8月:ヴィッセル神戸
- 2007年8月 - :横浜FC
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | 横浜F | - | J | 51 | 6 | - | 2 | 1 | 53 | 7 | |
| 1996 | 横浜F | - | J | 30 | 3 | 14 | 0 | 2 | 0 | 46 | 3 |
| 1997 | 横浜F | 6 | J | 32 | 3 | 10 | 1 | 5 | 2 | 47 | 6 |
| 1998 | 横浜F | 6 | J | 32 | 10 | 3 | 2 | 5 | 0 | 40 | 12 |
| 1999 | 横浜FM | 9 | J1 | 29 | 2 | 6 | 0 | 3 | 0 | 38 | 2 |
| 2000 | 横浜FM | 9 | J1 | 26 | 5 | 3 | 0 | 1 | 0 | 30 | 5 |
| 2001 | 東京V | 6 | J1 | 22 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 24 | 3 |
| 2002 | 東京V | 6 | J1 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 |
| 2003 | 東京V | 6 | J1 | 26 | 2 | 4 | 1 | 3 | 0 | 33 | 3 |
| 2004 | 東京V | 6 | J1 | 23 | 4 | 0 | 0 | 1 | 0 | 24 | 4 |
| 2005 | 神戸 | 17 | J1 | 25 | 6 | 0 | 0 | 2 | 0 | 27 | 6 |
| 2006 | 神戸 | 17 | J2 | 46 | 15 | - | 0 | 0 | 46 | 15 | |
| 2007 | 神戸 | 17 | J1 | 5 | 0 | 1 | 0 | - | 6 | 0 | |
| 横浜FC | 39 | J1 | 14 | 0 | - | 1 | 0 | 15 | 0 | ||
| 2008 | 横浜FC | 17 | J2 | - | |||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 323 | 45 | 43 | 4 | 22 | 3 | 391 | 52 | |
| 日本 | J2 | 46 | 15 | - | 0 | 0 | 46 | 15 | |||
| 総通算 | 369 | 60 | 43 | 4 | 22 | 3 | 437 | 67 | |||
[編集] 個人タイトル
- ナビスコカップ ニューヒーロー賞(1997年)
- Jリーグオールスターサッカー MIP(2004年)
[編集] 個人記録
- FK直接ゴール数Jリーグ単独1位
- Jリーグ通算300試合出場達成
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 2000年 シドニーオリンピック(オーバーエイジ枠)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 25試合 1得点(1999年 - 2005年)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1999 | 5 | 1 |
| 2000 | 8 | 0 |
| 2001 | 3 | 0 |
| 2002 | 0 | 0 |
| 2003 | 1 | 0 |
| 2004 | 6 | 0 |
| 2005 | 2 | 0 |
| 通算 | 25 | 1 |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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