名波浩
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| 選手名 | 名波浩(ななみ ひろし) |
| 高校名 | 清水商 | ポジション | MF | 生年月日 | 1972年11月28日 |
| 身長体重 | 177cm/71kg |
| 血液型 | |
| 出身校・クラブ | 静岡県藤枝市 | 経歴 |
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 名波 浩 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 本名 | 名波 浩 | |
| 愛称 | ナナ、なっちゃん | |
| カタカナ | ナナミ ヒロシ | |
| ラテン文字 | NANAMI Hiroshi | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1972年11月28日(36歳) | |
| 出身地 | 静岡県藤枝市 | |
| 身長 | 177cm | |
| 体重 | 70kg | |
| 血液型 | AB型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1995-1999 1999-2000 2000-2006 2006 2007 2008 |
150 (22) 24 (1) 138 (10) 13 (2) 17 (0) |
|
| 代表歴2 | ||
| 1995-2001 | 67 (9)
|
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|
1国内リーグ戦に限る。2007年12月1日現在 22007年9月11日現在 |
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名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。Jリーグのジュビロ磐田、東京ヴェルディ1969、イタリア・セリエAのACベネチアでプレーし、2008年に現役引退。Jリーグでベストイレブン賞を4度受賞。
日本代表としても、背番号10を背負い、1998年のフランスW杯に出場した経験を持つ。
目次 |
[編集] 人物
清水商高時代は大岩剛、山田隆裕、薩川了洋、望月重良らと共に高校総体、ユース選手権を制覇した。その後順天堂大学を経て、1995年にジュビロ磐田に入団。ジュビロでは入団直後からレギュラーとして活躍、後に訪れるジュビロ黄金時代を築き上げ、牽引した一人。同年から日本代表入りしている。
1998年フランスW杯では、アジア地区予選から日本代表の一員として出場し、背番号10を付け日本のエースとして本大会にも全試合に先発出場した。その後、右ひざの怪我をするまで、約6年間、日本代表の10番として君臨した。
1999年夏にイタリア・セリエAのSSCヴェネツィア(当時ACヴェネツィア)に移籍する。しかし出場機会は少なく、1シーズンで契約更新には至らずに翌年帰国し、磐田に復帰する。
その後もアジアカップで優勝し、MVPを獲得する活躍を見せる。2001年に右膝半月板を痛め、手術以降は2002年日韓W杯の日本代表からは外れた。以後代表には1度招集されたが出場は無かった。一方クラブレベルでは、その後もジュビロの中心選手として活躍し、2002年のJリーグ完全優勝(ファースト、セカンド両ステージ制覇)にも大きく貢献した。
2006年はチームの若返りを進める山本昌邦監督の下で次第に出場機会を減らし、突然の監督辞任によって就任したアジウソン監督になっても状況は変わらなかった。出場機会を求め、8月15日付けで、暫定最下位と波に乗れていなかったセレッソ大阪へ、2007年の1月31日までの期限付移籍を決断。最終的に自動降格は免れなかったが、加入前はわずかシーズン1勝だったチームが、加入後は入れ替え戦出場を争うまでに調子を上げていった。なおセレッソ在籍時の2006年11月26日大宮アルディージャ戦で、Jリーグ通算300試合出場を達成した(J史上23人目)。
2007年1月16日、磐田から東京ヴェルディ1969へ期限付き移籍をすることが発表された(期間は2007年2月1日-2008年1月31日まで)。サッカーダイジェストのインタビューなどでは、2007年シーズンをもって引退する事を匂わすコメントをしていたが、出場機会にあまり恵まれず不完全燃焼であったことと、磐田側からも復帰の要請があったことから2007年12月8日に「2008年シーズンは磐田に現役選手として復帰する」ことが発表された。
2008年11月12日、今期限りでの引退を表明。来季のコーチ就任は断ったが、「40歳過ぎぐらいに監督になりたい」としており、指導者として磐田に戻ることが濃厚と思われる。
[編集] プレースタイル
中盤の底のボランチの位置から長短のパスを繰り出すゲームメーカー。状況を読む戦術眼と味方を活かす質の高いパスに定評がある。清水商高時代からジュビロ入団当初までは、攻撃的な位置でプレーする「中盤の王様タイプ」の選手として知られた。しかし、日本代表の加茂周監督に展開力と守備への適性を買われ、ボランチへコンバートされる。以後代表やドゥンガ退団後の磐田では中盤の底に位置して、ゲームの流れをコントロールする役割を果たした。
ボールタッチやキックのほとんどを左足で行うレフティ。右足ではほとんどボールを扱わず、右サイドに流れた時にでも無理やり左足でセンタリングを上げることもある。「右足でパスを出すときは、むしろゲーム運びがうまくいっていないと見たほうがいい」(名波談)とも言える。入団会見では「自分の左足の下にボールがあるときは注目してほしい」と宣言し、引退会見では「『左の名波』『名波の左足』という自分の最も好きなフレーズが14年間で浸透できたのが自信になる」と振り返った[1]。
2001年の膝に負った怪我の影響で連戦に耐えられないという噂について、本人は「自分のコンディションよりも、むしろピッチコンディションが問題。それさえ整えばできなくはない」[2]とコメントしている。しかし、引退発表後には膝の状態が悪いところをチームメイトに見せないよう、ホテルの宿泊部屋でも配慮していたと明かしている[3]。
[編集] N-BOX
2001年にジュビロの鈴木政一監督が採用した中盤の陣形を、「週刊サッカーマガジン」は名波のイニシャルから「N-BOX」と命名した。フォーメーションとしては3-5-2だがウイングバックを置かず、名波を中心として前方に藤田俊哉と奥大介、後方に服部年宏と福西崇史が箱型に並ぶ。名波は流動的なパス交換の中継点となり、守備でも堅実にカバーリングをこなすなど、システムの中核として働いた。
ジュビロはFIFAクラブ世界選手権2001への出場を想定してこの布陣を準備したが、大会は開催中止となった。しかし、Jリーグでは翌2002年にかけて強く華麗なパスサッカーを展開し、観る者を魅了した。
[編集] 逸話
藤田俊哉を尊敬し、自他共に彼のプレーを一番理解していた人物であると評する。「入団時は3クラブからオファーがあった。金銭面では磐田は一番下だったけれど、俊哉がいるから磐田に入った。」[2]とのコメントを残している。しかしその藤田との個人的な付き合いは高校時代から今に至るまでほとんど無く、「俺が個人的に一番仲がいいのは同級の大岩剛」[2]とのコメントもある。
全国高校サッカー選手権では市立船橋高校の主将・脇田(ペナルティのワッキー)にシュートを止められたことがある。
子供の頃はガキ大将で名波自身「僕はジャイアンだった」と発言している。リーダーシップが強い性格で岡野雅行、森島寛晃など代表時代のチームメイトで名波を慕う者も多い。
コパ・アメリカ1999のパラグアイ戦では前半のみで交代させられ、フィリップ・トルシエ監督から「一生リーダーになれないタイプ」と個人攻撃された。これは公の場でマスコミを前にしての発言であり、名波は大激怒。後にサッカー協会が仲介に入り、トルシエが(当時名波が所属していた)ベネチアに飛んで謝罪をする事態にまで発展した。しばらく代表を離れることになったが、2000年のアジアカップでは若いチームを引っ張る活躍をみせ、批判に結果で答えた。
足の遅さについては自身でもネタにしている。しかし長距離走ではそうでもなく中3のサッカー部引退後の秋のスポーツテストでは、1500メートル走を努力の末4分47秒で走り抜いてみせた、というエピソードもある。1997年第1ステージ、スキラッチや中山などの主力FWがケガで離脱した際、その鈍足ぶりにも関わらず前線でのキープ力を見込まれFWで数試合起用されたことがある。
「試合を見る眼」については自信があると述べ、「現役を辞めたらサッカー誌で採点の仕事でもさせてもらおうかと思うことがある」「サッカーマガジンの採点よりは公平に見られる」という発言[2]がある。
Mr.Childrenの大ファンとしても知られ、プライベートでよくフットサルやサッカーをする。特にボーカルの桜井和寿とは長年親友関係でもある。Mr.Childrenの17作目のシングル『I'LL BE』は名波がセリエAに移籍する際に、応援歌として捧げた曲である。2008J1最終節の引退セレモニーでは名波の足跡を振り返った映像で『I'LL BE』『旅立ちの唄』が流れ、桜井が映像出演でコメントを寄せた。また黒沢健一(L⇔R)に風貌が似ていると言われ、カラオケでもミスチル以外に『BYE』などのL⇔Rの曲が持ち歌の一つになっている。
ヴェネツィア所属時にはイタリアの新聞に、フィジカルが弱い、すぐに倒されて飛んでしまうという意味で「羽毛のように軽い」と表現されてしまった。
磐田に入ってくる多くの選手にインタビューで『最もすごいと思う選手は?』と聞くと『名波』と口を揃えて言う、といわれるほどチームに絶大な影響を与えた選手。磐田ユース育ちの選手にとっては名波のトレードマークである7番こそ中心選手のつける背番号というイメージが今もある。
背番号7番を好む理由について「苗字が『ななみ』だから」と言い、「73番とか773番でもいい。10番はイメージが込められすぎていて好きじゃない」とも述べている。代表では初招集時の14番を気に入っており、理由を問われると「(自分の招集前に14番をつけていた)ゴンさんの後を継いだ感じがするから」と答え、その後14番をつけることが多かった友人である岡野雅行には「10番と取り替えよう」という掛け合いを、テレビ、雑誌などさまざまな媒体で対談など顔を合わせると必ずやっていた。過去2度の磐田への復帰時やC大阪での背番号16は1+6=7と言う意味が込められていた。他に34(3+4=7)も用意すると言われたが、「大きすぎる番号は好みじゃない」と断っている。
2006年シーズン終了後、磐田にはC大阪からのレンタル期間延長のオファーと、東京Vからのオファーの両方が届いていたが、癌のために東京で闘病中だった母親に近いところでプレーしたい、とヴェルディを選択したという。しかしその母は、移籍発表直後の1月20日に64歳で死去した[4]。
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
- 1985年 - 1987年 藤枝市立西益津中学校
- 1988年 - 1990年 清水商業高等学校
- 1991年 - 1994年 順天堂大学
プロ経歴
- 1995年 - 1999年7月 ジュビロ磐田
- 1999年7月 - 2000年6月 ACベネチア (イタリア:当時セリエA)(期限付き移籍)
- 2000年9月 - 2006年8月 ジュビロ磐田
- 2006年8月 - 12月 セレッソ大阪 (期限付き移籍)
- 2007年 東京ヴェルディ1969(期限付き移籍)
- 2008年 - ジュビロ磐田
[編集] 経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | 磐田 | - | J | 51 | 3 | - | 2 | 0 | 53 | 3 | |
| 1996 | 磐田 | - | J | 30 | 3 | 14 | 1 | 1 | 0 | 45 | 4 |
| 1997 | 磐田 | 7 | J | 21 | 5 | 2 | 0 | 2 | 1 | 25 | 6 |
| 1998 | 磐田 | 7 | J | 33 | 7 | 2 | 0 | 3 | 0 | 38 | 7 |
| 1999 | 磐田 | 7 | J1 | 15 | 4 | 2 | 0 | - | 17 | 4 | |
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999-00 | ベネチア | 7 | セリエA | 24 | 1 | - | |||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2000 | 磐田 | 16 | J1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 7 | 1 |
| 2001 | 磐田 | 7 | J1 | 17 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 21 | 1 |
| 2002 | 磐田 | 7 | J1 | 24 | 1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 29 | 1 |
| 2003 | 磐田 | 7 | J1 | 27 | 3 | 5 | 0 | 5 | 1 | 37 | 4 |
| 2004 | 磐田 | 7 | J1 | 29 | 3 | 5 | 0 | 3 | 0 | 37 | 3 |
| 2005 | 磐田 | 7 | J1 | 26 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 30 | 1 |
| 2006 | 磐田 | 7 | J1 | 10 | 0 | 4 | 0 | - | 14 | 0 | |
| C大阪 | 16 | J1 | 13 | 2 | - | 0 | 0 | 13 | 2 | ||
| 2007 | 東京V | 7 | J2 | 17 | 0 | - | 1 | 0 | 18 | 0 | |
| 2008 | 磐田 | 16 | J1 | ||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 301 | 34 | 45 | 1 | 20 | 2 | 365 | 37 | |
| 日本 | J2 | 17 | 0 | - | 1 | 0 | 18 | 0 | |||
| イタリア | セリエA | 24 | 1 | - | |||||||
| 総通算 | 342 | 35 | 21 | 2 | |||||||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2004 | 磐田 | 7 | 3 | 1 |
| 2005 | 磐田 | 7 | 3 | 0 |
| 通算 | AFC | 6 | 1 | |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1996年 AFCアジアカップ UAE大会
- 1998年 FIFAワールドカップ フランス大会
- 1999年 コパ・アメリカ パラグアイ大会
- 2000年 ハッサン2世国王杯
- 2000年 AFCアジアカップ レバノン大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 67試合 9得点(1995-2001)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1995 | 2 | 2 |
| 1996 | 13 | 1 |
| 1997 | 21 | 3 |
| 1998 | 11 | 0 |
| 1999 | 6 | 0 |
| 2000 | 12 | 3 |
| 2001 | 2 | 0 |
| 通算 | 67 | 9 |
[編集] ゴール
| # | 日付 | 場所 | 対戦国 | 結果 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1995年、5月6日 | 日本 | ○3-0 | 親善試合 | |
| 2. | 1995年、10月24日 | 日本 | ○2-1 | 親善試合 | |
| 3. | 1996年、12月9日 | UAE | ○4-0 | AFCアジアカップ1996 | |
| 4. | 1997年、3月25日 | オマーン | ○10-0 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 5. | 1997年、6月22日 | 日本 | ○10-0 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 6. | 1997年、11月1日 | 韓国 | ○2-0 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 7. | 2000年、10月14日 | レバノン | ○4-1 | AFCアジアカップ2000 | |
| 8. | 2000年、10月24日 | レバノン | ○4-1 | AFCアジアカップ2000 | |
| 9. | 2000年、10月24日 | レバノン | ○4-1 | AFCアジアカップ2000 |
[編集] 個人タイトル
- 1996年 - アジアカップベストイレブン・ナビスコカップニューヒーロー賞・Jリーグベストイレブン
- 1997年 - Jリーグベストイレブン
- 1998年 - AFC年間ベストイレブン
- 2000年 - アジアカップMVP・アジアカップベストイレブン・AFC年間ベストイレブン
- 2002年 - Jリーグベストイレブン
[編集] 関連人物
[編集] 註
- ^ J's GOAL 名波浩現役引退会見全コメント
- ^ a b c d 2003年11月にぴあの主催で鈴木秀人と共に行ったトークライブの際に残した名波自身のコメント
- ^ 「週刊サッカーマガジン」 2008年12月2日号
- ^ 先述の磐田入団を決めたもう一つの理由も、身体の弱い母親のいる実家の近くでプレーできるためだった。
[編集] 外部リンク
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