澤登正朗
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| 選手名 | 澤登正朗(さわのぼり まさあき) |
| 高校名 | 東海大一 | ポジション | MF | 生年月日 | 1970年1月12日 |
| 身長体重 | 170cm/66kg |
| 血液型 | |
| 出身校・クラブ | 静岡県富士宮市 | 経歴 |
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 澤登 正朗 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ノボリ | |
| カタカナ | サワノボリ マサアキ | |
| ラテン文字 | SAWANOBORI Masaaki | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1970年1月12日(38歳) | |
| 出身地 | 静岡県富士宮市 | |
| 身長 | 170cm | |
| 体重 | 66kg | |
| 血液型 | B型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF | |
| 利き足 | 右足 | |
| 代表歴 | ||
| 1993-2000 | 16 (3)
|
|
澤登 正朗(さわのぼり まさあき、1970年1月12日 - )は日本の元サッカー選手・サッカー解説者・サッカー指導者。現役時代はMFとして活躍、日本代表にも選ばれた。また、Jリーグの初代新人王でもある。引退後はテレビや雑誌などでのサッカーの解説者として活動。JFAアンバサダーも務める。
目次 |
[編集] プロフィール
東海大一高(現・東海大翔洋高)2年生のときに選手権優勝。3年生では準優勝。東海大学体育学部卒業後、1992年から清水エスパルスの草創期メンバーとして活躍し、2005年11月23日に現役引退を表明して現役生活にピリオドを打つまで清水一筋で常に第一線で出場し続けた。Jリーグ創設の1993年から2005年まで、同一クラブのみで13年連続ゴールを決めているただ一人の選手である[1]。
デビュー以来一貫して清水に所属し第一線で活躍[2]。1996年から2000年にかけては主将としてチームを引っ張り、1996年のナビスコカップや1999年のJ1・2ndステージでチームを優勝に導く(同年のベストイレブン)などチームに対する貢献度は絶大で、今なお「ミスター・エスパルス」と称される。その功績を賞して、2007年1月21日に日本平スタジアムで、清水出身の選手として初めて引退試合を行った。詳細は後述する。
日本代表としても1994年ワールドカップアメリカ大会予選を戦い、ドーハの悲劇も経験している。
現在は地元静岡県を中心にサッカー講習会の講師、静岡放送・静岡朝日テレビのサッカー解説者として出演している。(静岡放送「SBSテレビ夕刊(イブニングニュース)」月曜レギュラーなど)
テレビ朝日「報道ステーション」のサッカーコメンテーターとして2008年2月6日からレギュラー出演している。これはサッカーキャスターの前任者・福田正博が浦和コーチに就任し降板したためによる後継。
[編集] 逸話
- 澤登が引退した直後のシーズンとなった2006年シーズン開幕前、クラブ側が彼の付けていた背番号10番を欠番としなかったことに対し、サポーターから非難の声が上がるほどであった。澤登の存在感を物語るエピソードと言えよう。ただし、その背番号10番を受け継いだ藤本淳吾が、澤登自身がJリーグ初年度に受賞した新人王を獲得する活躍を見せたことから、現在ではこうした非難の声は沈静化している。
- いわゆる「ドーハ組」を応援したファンには澤登の記録した日本代表初ゴールが印象的に記憶されている。1993年5月7日、1994年FIFAワールドカップアメリカ大会のアジア地区1次予選最終戦・対アラブ首長国連邦(UAE)戦がアウェイのアル・アイン・スタジアムにて行われた。ここまで7戦全勝で迎えた日本代表は既に同年4月のホーム(国立競技場)におけるUAE戦で2対0の勝利を収めていたが、この日は気温33度、湿度も20%程度の過酷な天候が影響してかよもやの苦戦を強いられる。ホームの利と衰えない運動量に支えられたUAEのカウンター攻撃を凌ぎつつ、0対0で迎えた後半32分福田正博に代わり澤登が途中出場。UAEがPKと決定的なシュートを2度、ゴールポストとクロスバーに当てる幸運に助けられたものの、日本劣勢の展開は変わらずついに後半37分技ありのループシュートを決められ先制点を許してしまう。しかしわずか1分後の後半38分、澤登はUAEゴール前のクリアーミスを見逃さず右足で前方にトラップ、2度目の小さいバウンドが上がった所をペナルティエリア外側中央から豪快に右足を振りぬいた。左サイドネット際目掛けて放たれた鮮やかなミドルシュートはGKの手をかすめて決まり、このゴールによって試合は1対1のドローに終わる。その豪快さもさることながら、日本が一次予選無敗を守った殊勲のゴールでもあった。当時歴代最強と言われた日本代表の意地を見た瞬間とも言え、約1週間後には念願のJリーグの開幕を迎える時期でもあった。澤登自ら、このゴールを「思い出のゴール」として挙げている[3]。
- 日本代表で長年背番号10を付けていたラモス瑠偉は、10番の後継者として澤登を指名していた。
- 清水は悲願のステージ優勝を果たした1999年シーズン、年間を通じて非常に安定した成績を誇り、 チャンピオンシップこそ惜しくもPK戦で敗れたものの、年間の勝点では2位を完全に引き離す成績であった(1位の清水が勝点65、2位の柏が勝点58)。澤登はその中心選手として活躍した功績が認められ、8年目にして自身初のベストイレブンに選ばれた。
[編集] 伝説のフリーキック
1999年のJリーグチャンピオンシップ第二戦、清水のホーム日本平スタジアムで最大のライバルジュビロ磐田と対決。
試合はチャンピオンシップ史上初の静岡ダービーとなったことや、第一戦で清水が敗北を喫していたことなどから、立ち上がりから激しい展開を見せる。
前半34分、中山雅史が前線からプレスをかけ、西澤淳二からボールを奪取。守備の乱れから服部年宏のミドルシュートが決まり、アウェーのジュビロ磐田が一点を先制する。
わずか3分後の前半37分、三浦文丈がアレックスに対してファウル。この際、三浦の執拗なマークに苦しんでいたアレックスが、報復行為で一発退場を受け、早くも0-1かつ十人で戦わなければいけない状況に。1999年シーズンのステージ優勝はアレックス抜きには語れないほどその存在は大きく、絶望的な雰囲気が漂う日本平スタジアム。
しかし、澤登はそのファウルで得たFKを直接決める。
先制された直後に試合を振り出しに戻しただけでなく、停滞したチームのムードを払拭する値千金の一撃であった。また、その直後に失点に繋がるミスを犯した西澤淳二に声をかけている姿が印象的であった。
そのFKは「伝説のフリーキック」とまで呼ばれ現在でも語り草となっており、澤登にとって、そして清水にとっての歴史に残るゴールとされている。
[編集] 引退試合
- 開催日 - 2007年1月21日
- 開催場所 - 日本平スタジアム
- 出場選手(数字は背番号)
- 「JAPAN ALL STARS」[4] - 1.下川健一、2.小村徳男、3.相馬直樹、4.服部年宏、5.柱谷哲二、6.都並敏史、8.北澤豪、9.武田修宏、10.ラモス瑠偉、11.三浦知良、12.城彰二、13.藤田俊哉、14.岩本輝雄、15.山口素弘、16.中山雅史、17.磯貝洋光、18.澤登正朗[5]、21.三浦泰年、22.小倉隆史、23.川口能活
- 「S-PULSE ALL STARS」 - 1.真田雅則、2.内藤直樹、4.堀池巧、5.安藤正裕、6.大榎克己、7.永井秀樹、8.安永聡太郎、9.長谷川健太、10.澤登正朗、11.向島建、12.平岡直起、13.田坂和昭、14.三渡洲アデミール、15.平松康平、16.シジマール、17.伊東輝悦、18.興津大三、19.高木純平、20.藤本淳吾、22.市川大祐、26.高木和道、27.森岡隆三
- 主催 - 財団法人日本サッカー協会、社団法人日本プロサッカーリーグ
- 主管 - 財団法人静岡県サッカー協会、株式会社エスパルス
- 特別協賛 - 鈴与グループ
- 共催 - 株式会社静岡新聞社、静岡放送株式会社
- 後援 - 株式会社日刊スポーツ新聞社
- 協賛 - 悦楽グループ
[編集] 個人タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 16試合 3得点(1993-2000)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1993 | 5 | 1 |
| 1994 | 6 | 1 |
| 1995 | 0 | 0 |
| 1996 | 0 | 0 |
| 1997 | 0 | 0 |
| 1998 | 0 | 0 |
| 1999 | 1 | 0 |
| 2000 | 4 | 1 |
| 通算 | 16 | 3 |
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1992 | 清水 | - | J | - | 10 | 1 | 3 | 0 | 13 | 1 | |
| 1993 | 清水 | - | J | 35 | 7 | 1 | 0 | 4 | 2 | 40 | 9 |
| 1994 | 清水 | - | J | 41 | 7 | 1 | 0 | 1 | 0 | 43 | 7 |
| 1995 | 清水 | - | J | 40 | 13 | - | 1 | 0 | 41 | 13 | |
| 1996 | 清水 | - | J | 29 | 9 | 16 | 3 | 3 | 0 | 48 | 12 |
| 1997 | 清水 | 10 | J | 31 | 11 | 6 | 0 | 3 | 1 | 40 | 12 |
| 1998 | 清水 | 10 | J | 32 | 10 | 4 | 2 | 5 | 3 | 41 | 15 |
| 1999 | 清水 | 10 | J1 | 28 | 9 | 4 | 1 | 3 | 0 | 35 | 10 |
| 2000 | 清水 | 10 | J1 | 27 | 3 | 4 | 1 | 5 | 0 | 36 | 4 |
| 2001 | 清水 | 10 | J1 | 26 | 9 | 2 | 1 | 5 | 2 | 33 | 12 |
| 2002 | 清水 | 10 | J1 | 29 | 3 | 7 | 3 | 3 | 2 | 39 | 8 |
| 2003 | 清水 | 10 | J1 | 14 | 2 | 2 | 0 | 4 | 0 | 20 | 2 |
| 2004 | 清水 | 10 | J1 | 24 | 1 | 5 | 0 | 1 | 0 | 30 | 1 |
| 2005 | 清水 | 10 | J1 | 25 | 1 | 5 | 0 | 1 | 0 | 31 | 1 |
| 通算 | 日本 | J1 | 381 | 85 | 57 | 11 | 41 | 10 | 479 | 106 | |
| 総通算 | 381 | 85 | 57 | 11 | 41 | 10 | 479 | 106 | |||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2002-03 | 清水 | 10 | 1 | 1 |
| 通算 | AFC | 1 | 1 | |
[編集] 経歴
[編集] 脚注
- ^ J創設からの13年連続ゴールを記録したプレーヤーとしては、他に三浦知良(カズ)がいるが、カズは途中で移籍を挟んでおり、また国外移籍によってJリーグに不在の時期がある。また、中山雅史も13年連続ゴールを達成しているが、中山が所属するジュビロ磐田は1994年からのJリーグ加盟であり、創設からの連続ゴールではない。移籍を挟み、かつ1994年からの13年連続ゴールとして、他に藤田俊哉がいる。
- ^ J創設時から一度も移籍することなく同じチームでプレイしたのは、澤登以外には鹿島アントラーズの本田泰人、浦和レッズの福田正博のみである。
- ^ 引退後に出演したTBS、『スーパーサッカープラス』内での発言。
- ^ 名波浩も出場予定だったが、実母の逝去により欠場した。
- ^ オフィシャル発表された背番号は18番であったが、試合当日、ラモスの計らいで「JAPAN ALL STARS」の背番号10番を譲り受ける。また、カズからキャプテンマークも譲り受けた。
[編集] 外部リンク
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